主の祝福のあるところに身をおくこと

shuichifujii2008-04-22

 先日、横浜にいる妻の祖母が亡くなり、葬儀に出席して、今日帰ってきました。


 帰ってきて、ポストをみると、「祷援会」(酒田の開拓伝道を祈って支える会)の報告書が届いています。

 実に沢山の方が、この会に入ってくださり、祈りと捧げものをもって、酒田のぞみキリスト教会の働きを支えてくださっています。


 私たちがなにかお願いしたわけではないのです。また私たちに、なにか義理があったりするわけでもないのです。ただ、有志の方々が起こされて出来た、全く自主的な会であり、活動はすべて、ボランティアでなされているのです。


 まったくもって、不思議なことです。

 あらためて、酒田の働きを支えてくださっている、すべての方々に、この場を借りて、深く感謝を申し上げます。



 私は、この「祷援会」というものが出来たという出来事を、主がこの働きを「続けてもいいよ」と祝福してくださった「しるし」と受け止めて、励まされています。


 どのような伝道の働きも、大切です。ですから、別にこの酒田だけが大切なわけではありません。ですから、もし、主が私たちに酒田にいることを願っておられないなら、いくら私がこの酒田にいたいと願ったとしても、この働きを続けられなくなるでしょうし、主の御心でないことなら、平安もないでしょう。


 そして、主がしなさいといわれることなら、必要な助けは主が下さるでしょう。でも、主が「もういいよ、酒田の働き、ごくろうさん」と示されたなら、次に、主が導かれるところに行って、仕えたらいいのです。


 「自分が、ここにいたい」というところに身を置くのではなく、「主が、そこにいなさい」といわれるところに身をおくとき、主の祝福は流れてくると信じています。



 また、酒田には、立派な会堂があり、沢山の人が集う教会がありますけれども、私たちのような、ちいさな、借家に看板を出しているだけの教会に集い、礼拝にこられる方々は、まさに、主に招かれているとしか言いようがない、不思議な導きによって、「狭き門」をくぐってこられます。



 主が導かれるところに身をおくことの喜びと祝福を、共に味わっていきたいものです。