今日の夕食はおでんでした。おでんの横には、おいしそうな、たくあん。
おでんのだいこんが柔らかく煮あがっている。
「おでんのだいこん柔らかいね」と私。
「たくあんも、だいこんなんだよね。」と妻
ああ、そうだよな。だいこんって、煮ればとろけるほどやわらかくなるし、干せばパリッと固くなるし、おろせばぴりぴり辛くなるし。そしてどう料理しても、おいしい。
「ふしぎだなぁ」と私。
「だいこんって自己主張しないんだよね」と妻。
「ああ、そうか」
なにかその一言がとても心に響きました。
自己主張しないからこそ、料理人の腕しだいで、どんな形にでも豊かに用いられるのですね。
「自分は牧師ですから、これはしますが、これはできません。」そんな自己主張、自我、聖書のいう「肉」に縛られてはいなかっただろうか。
「自分は、こういう人間ですから、これは得意ですが、これはできません。」
そんな自我が、砕かれることこそ、祝福への道
神様に用いられる人とは、きっとだいこんのような人。
「自分、自分」と自分に固執する自我に砕かれ、自由に神様に用いられる、だいこんのような人にならせていただけるようにと、主に祈りたい。