洗礼について

 今日のお祈り会は、ユキティさんとママさんと一緒に、マルコの福音書を読みました。1章を読んで、分からないことを分かち合い。


 洗礼(バプテスマ)ということに関して、質問がありました。マルコの福音書は、1章で、バプテスマ(洗礼者)のヨハネがでてきたり、イエス様も、そのヨハネからヨルダン川バプテスマを受けられたという記事が出てくるので、この、洗礼(バプテスマ)ということについて、少し整理しておく必要がありますね。



 洗礼(バプテスマ)は、イエス様を信じた人が、イエス様の体である教会に加わって新しく歩み始める、その信仰を、見える形で表明する儀式です。


 教会によってバプテスマもいろいろやり方があって、頭に水滴をつけてお祈りするやり方(滴礼)もありますけれども、わたしたちは、イエス様が模範としてしてくださった、全身を水に沈める形を大切にしています。


 なので、教会に水槽を造ったり、なければ、川や海やプールや温泉でもいいと思いますけど、そういうところで、形としては、水に一度沈み、もう一度起き上がるという、バプテスマをします。それは、目には見えない信仰の事柄、霊的な意味を、象徴している形だからです。


 水に一度沈む、ということが意味しているのは、神ではないものを神としてしまう罪に縛られていた、そういう古い自分が、葬られることであり、そして次に、水から起き上がることが意味しているのは、イエス様への信仰を通して、本当の神様とつながって生きていく、そういう新しい命へと甦ることが、象徴されています。


 そして、ギリシャ語の「バプテスマ」という言葉には、沈めるとか浸すとか、そういう意味があるので、バプテスト教会では、「洗礼」(罪を洗う)という言い方ではなく、「浸礼」という言い方をします。ただ、実際には、一般には洗礼という言い方のほうがとおりがよいので、使い分けていますが・・・


 
 ところで、わたしは、バプテスマって、結婚式と似ているな、と思うのです。


 結婚式なんてしなくたって、好きなら一緒に同棲すればいいじゃないか、という人も、世の中にはいるものですが、それでは幸せにはなれませんね。本当にお互いが愛しあい、お互いのことを大切に思っていたら、面倒でも、周りの人々からも祝福していただくために、ちゃんと式を準備して、式を挙げるわけです。そこからしか、幸いな結婚生活は始まらないわけです。


 たまに、「心で、神様を信じているのだから、洗礼なんてべつにいいじゃない」という人がおられますけれども、本当に幸いなる、神様と共に生きる信仰生活を始めるためには、洗礼という式を通して、祝福をもって始めることは、大切なことなのですね。


 美香は「バプテスマを受けたい」といっていますから、少しづつ準備したいと思います。嗣音は「水にもぐるのが怖いから、大人になってからにする」と言っているようですが、美香が受けたら、きっと、自分もしたいというでしょう。

 先日、お風呂で子どもたちは、「バプテスマごっこ」をしていたようだし(笑)


 主が最善のときを導いてくださいますように。