田舎にこそ福音の光を

ここ数日、酒田は風が強いです。
家の中にいると、「ゴォォー」とものすごい音がします。
外では、「ガタン」とか「バチン」とは、物が倒れたり飛んだりしている音。
この風に雨や雪が混じったら、もう外を歩くのは困難ですね。


 さて酒田に来てから、まだ一度も道で寝ている人、いわゆるホームレスの人を見たことはありません。当たり前ですけれども、こんな寒い日に、道で寝たてたら半日で死んでしまうでしょうから。


 とはいっても、貧しい人がいないわけではなく、ある人は、都会にでて、ホームレスになっている人もいるのかも知れません。私が東京で出会ったホームレスの方々は、ほとんど、地方出身者でした。わたしは、その方々と話しをしたときには、こんな冷たい都会にいないで、田舎に帰った方が人間らしく生きられるのではないかと、思ったことがあったのですが、無知でしたね。


 実は、寒さをしのげる地下街があったり、アーケードがあったり、飲食店のあまりものに預かれるような都市でなければ、ホームレスの方々の居場所はないのです。そういう意味で、逆説的な言い方ですけれども、実は、都市の方が、弱者に優しいのかもしれません。


 都会の教会でも、ホームレスの方にご飯を差し上げたり、支援をしている所もありますし。


 反面、貧しく寒い田舎に行けば行くほど、弱い人の居場所が少なくなるように感じるのは気のせいでしょうか。


 道ばたで寝ている人がいないからといって、田舎は豊かで、のどかで、平和だというのはあまりにも一面的な見方です。人びとの目に見えない家の中で、今日も悩み苦しんでいる人は多くいるはずです。


 イエスさまは、病の方、人びとから蔑まれている方、居場所を失い悲しんでいる方の友となり、神の国の希望を伝えて歩きました。イエスさまが、エルサレムという当時の都会ではなく、ガリラヤという田舎で伝道を始められたことの意味をあらためて思うのです。


 現代の教会は、都会に集中し、地方は閑散としています。合理性からいえば当然の結果です。ただ、イエスさまのあり方、つまり痛んでいる一匹の羊を探す愛という観点から見たら、どうなんでしょうか。


 田舎にこそ、福音の光を