祈りに守られて

 布団を干したら、霧雨のような雨がふり、干すのをやめたら、晴れてくる、今日は、とても良いお天気。


 今日は、コンサートの著作権の申請を著作権協会にしなくてはいけないので、その手続き。司会のマニュアル作り。その他いろいろ。


 午後、ユキティさんとユキティママさんが教会に。「こんどの日曜日は用事で礼拝にこれないので」ということで、遊びに来てくださいました。ユキティさんは子どもたちと遊んでくださって、キーボードで「猫踏んじゃった」や「キラキラほし」を教えてくださったり、楽しそう。最後は、みんなで手をつないでお祈り。目には見えなくても、イエスさまは真ん中にいて、祈りを聞いてくださる。そういう実感を新たにしました。


 祈りには力があります。祈る自分にある力ではなくて、祈りを聞いてくださるイエスさまにある力のことです。


 「あなたの信じた通りになるように」とイエスさまがいわれたように、結局は、自分が信じていることを、私たちは祈り、願い、そして自分が信じている通りに、その実を刈り取っていくのでしょう。


 「きっと状況は変る」「変化する」「成長する」「良くなる」なぜなら、イエスさまにはその力があり、私たちを愛しておられるから。そのように信じるところから、祈りは生まれます。


 そして、その祈りが積まれて積まれて、神の時が来たときに、自分が信じていたことが実となってあらわになる、ということではないでしょうか。


 のぞみ教会は沢山の人で溢れるようになる。私は、そう信じているから、毎朝、そのように祈ります。でも、祈っていて、現実とのギャップに、いつも涙がでます。祈っていて泣けて泣けてしかたがないのです。悲しいからではありません。イエスさまが聞いてくださっているからです。


 じゅうぶん祈った後は、いつも心がすっきり晴れ晴れとします。逆をいえば、そこに至るまで祈り続けます。まるで、イエスさまに心の中の苦しみ、痛みを吸い取られたような、心持ち、そして、心の中に温かい愛を感じ、不思議な平安と希望、そして力が与えられるのです。


 もし、この祈りの祝福を知らないままだったら、私はとっくの昔に、鬱になっていたかもしれません。

 信じられないことを、しかし、なおイエスさまの真実を信じて、祈りつづける祈り。


 その祈りに守られて、私の今はあるのです。