「丸森」という人たち

 今日は夜の祈祷会の時間を変更して午前中に妻と共に祈り、「のぞみ」配り。午後はお手紙やメールの返事を書いていたら、「丸森」という信仰のグループが、車から例の拡声器で「神の裁きが・・」とやっていました。悲しくなりました。


 彼らは、地道に聖書の言葉に生き、悲しみや喜びを感じながら、その「存在」をもって、御言葉を証している地元の教会の宣教を、どう思っておられるのでしょう。てっとり早く拡声器でテープの声を聞かせればいい、看板を貼っておけばいい。そうやって御言葉に生きている「存在」が見えない、一方的な宣伝行為によって、地元の教会が大事に大事に育てている小さな花が踏みつぶされています。



「スピーカーがうるさいぞ」という苦情は、地元の教会にくるのですから。


 「愛」のない行為は、全てむなしいのです。

1コリント13章
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」