再び朝起き会のご婦人

 一月ほどまえに教会を訪ねてこられた朝起き会のご婦人が再度こられました。「大変でしょう」とわたし。「いえいえ喜んでやっていますから」とご婦人。「そうですか、でも、もし疲れたら、その時はお祈りさせていただきますね」


 良い生き方、人としてのあるべき姿を学ぶということは意味あることですし、それによって気付かされ、気持ちが明るくなるということもあるかもしれません。しかし、そのような生き方を「実践」しなさいと説かれるなら、それが出来ていると思えるときは喜び、そうでないときは、まじめな人ほど、自分を責め、苦しむでしょう。鬱にさえなるかもしれません。


 その点、クリスチャンには祈りがあります。祈りとは、いのちの源である神様と交わる行為といっていいかと思います。自分の中には存在しない、力と喜びと愛を、毎日、新しく頂くために、日々祈る。そういう意味で、信仰の実践とは祈りです。「もとめよ、そうすれば与えられるであろう」とイエスさまが約束なさったように、祈り求めるなら、与えられる、知恵が、力が、喜びが、愛が、平安があります。もし、そんなものないと言うなら、クリスチャンも、朝起き会の方と一緒。神の助けもなにもなく、ただ、自分で頑張らねばなりません。そんな信仰など、苦しく、むなしいだけです。


 パウロという人は、「わたしを強くしてくださるかたによって、何事でもすることができる」と言いました。イエスキリストを通し、神に祈り求めつづけるところにこそ、あらゆる可能性が開かれていくのです。