イエス様と家族と

shuichifujii2006-10-01

 今日の午前中の教会学校は、聖書のお話の後、白玉つくり。「なぜ白玉なのか」はこの際問わないでくださいね。午後の礼拝は、求道者のご夫妻がお休みだったので、家族だけで礼拝でした。礼拝の最初は、正直さびしい気持ちがするのだけれども、礼拝が終わってみると、不思議に心に力をいただいている自分がいます。主が共にいてくださるのだなと、しみじみ思います。妻も礼拝を献げて元気が出たといっていました。
 妻はこのところ、肩こりと腰痛がひどいので、夕方から近くの温泉へ。電動マッサージでだいぶ楽になったようです。それにしても町営の温泉は安い。とてもきれいな設備なのに銭湯より安いのはありがたいです。
 今週も「のぞみ」配りをします。頑張ってもなかなか沢山は配れないので、時たま、新聞折込にしてしまえば、という誘惑もあります。しかし、新聞折込だと、他のチラシにまぎれてしまうので、大変だけれども、できたら直接ポストに入れたい。ポストに入ったチラシは、たとえ捨てるためであっても、とりあえず手には取ってくれる。ここ酒田は、東京ほどポストに入るチラシが多くないので、ポストに入ったチラシを手にとって見る可能性は高いです。ちらっとみてみて、「なんだキリスト教か」と、そのままゴミ箱行きでもいいんです。「最近、教会のチラシが入るようになったな」と思ってもらうだけでもいい。もし、チラシを配らなければ、可能性は0でしょう。しかし、チラシが配られたなら、すくなくとも0ではなくなるではないですか。0という数字にたとえ一億かけあわせても、0ですが、0でなければ、一億かければ、何かが起こるかもしれません。そして、神様の力は一億どころではなく、無限大。しかし、たとえ神様の力が無限大でも、0という数字を掛け合わせたら、すべては0になる。「やっても無駄だ」「いままでも散々やってきた」「どうせ読む人などいない」という否定的な気持ちは、ようするに数字の0なのです。0では神様も働きようがないのです。それでは、いつまでたっても0なのです。ですから、0ではなくするために、今週も「のぞみ」を配りたいと思います。あとは神様のお働きにゆだねればいいのです。そう思うと、とても楽しくてわくわくするのです。