ゆとり教育「申し訳なかった」中山文科相が中学生に

 中山文部科学相は21日、教育現場の生の声を聞く「スクールミーティング」で水戸市の茨城大教育学部付属中学校を訪れ、「ゆとり教育」で学習量が減ったことに不安を訴えた生徒に対し「ゆとり教育は間違ってとらえられ、勉強しなくていいという印象を与えた。今、見直しが始まって、(教科書の)ページ数が減ったのも元に戻りつつある。学校だけで基礎学力が身につくようにしなければならない」と“謝罪”したというニュース。

 謝罪されたことについては、誠実な態度だなと思います。
 それと、ゆとり教育云々に関しての議論については、散々されてきたでしょうから、もういいです。
 この際ですから、一つ問いを発しましょう。今回のゆとり教育撤退というケースを通しても明らかになったように、「そもそも教育内容やカリキュラムを国に任せて大丈夫なのか?」。国とは自由に、家庭や地域共同体レベルでの多様な教育がなされるほうがいいのではないか、という問いです。
 日本は日本語という共通言語ゆえに、国が一律に教育内容とカリキュラムの大枠のレールをひけてしまうわけですが、そのようなレールを敷くから、そこに乗っかれない子どもたちをつくるという、今の日本の教育の問題が起こってくるのではないかという、そういう問題設定はできないものでしょうか。日本も明治以前までは、もっと教育の多様性というものがあったでしょうし、もうこれだけ近代化し成熟したら、画一した教育プログラムで富国強兵&愛国心教育という考え方はやめてもいいでしょうに。
 国家というものを長いあいだもてなかったユダヤ人にとっては、当然、教育の主体は国ではなく家庭。たとえ寄留する国の教育機関に子どもを託すことがあったとしても、親のもつ教育の主体性まで国に明け渡すことはなかったでしょう。だから、どの国に住んでも、どの言葉を話したとしても、ユダヤ人はユダヤ人でありつづけることができた。まさかユダヤ人が「国がこんなことをして、頭がわるくなってしまったらどうするんだよー」とか、「ごめんね、私たち国のせいで、こうなっちゃったんだね」ということはなかった。教育の責任を国に丸投げしないところが、国がなくても生きぬいた彼らの強さでもあった。とするなら、なにかこの日本の国家主導の教育で大丈夫かいな・・という疑問を常々感じているわけです。聖書は教育の主体は、家族であり、信仰共同体だと教えています。国は教育の主体ではないというのが聖書の思想。でもこんな問は、国が「お上」であるこの国では、普通の問いにはならないんですよね。