日本のキリスト教に欠けているもの

「問題は、非常に極端に言えば、人間が、その一人一人が個人であって、ということは、一人一人が背負うべき道徳的な責任であるという意識が欠けているということなんですよ。これはもうほとんど宿命的といっていいくらいに強く日本人の上におおいかぶさっている問題で、非常に難しい問題ですけれども、だからある意味でキリスト教の本当の姿が日本人の目には見えなくなっているという面があると思いますよ。例えば、キリスト教には三位一体という神学的な考え方があって、神様といえどもお互いに愛の循環がある。それから人間と神様との愛の関係があって、神様が人間を愛して人間がそれに答えるという、愛の協同というわけですね。それから、人間同士の間に交わりがある。そういうことと、日本人の個人の責任と自覚ということの欠如と、非常に結びつく面がある。言葉だけで、愛のほうが根底だというわけでね。これは非常に危ない、ぜんぜん違うんですよ。これだけはもう何としても繰り返していいますが全然違うんですね。ところがそれが現実にはずいぶんある。そこを通ってないものですからね。しかもそこを通らせる力は、日本の場合にはキリスト教しかないと思うのです。おそらくヨーロッパでもそうだったのではないかと思いますね。ですから、明治時代まだキリスト教が迫害されていたころは、親、兄弟、先生の意見に反してもキリスト教になるということで、個人の責任がはっきり自覚されていたけれども、今何だかキリスト教が奨励されるようになったでしょう。まあ、キリスト教なら共産主義にならないからいいということですね。だから、このごろはキリスト教だというと安心するんですね。そういう面が出てくると、個人の責任ということは、今度はまた前とは違って逆な方向にぼやけてくるんですよ。そこのところを断ち切って、人間一人一人が責任を背負うということは、他の人に対して自分が責任を背負うということなんですが、日本の場合、日本のいわゆる習俗的なものとキリスト教とを結び付けようとすると、その点が危うくなってくる可能性がずいぶんある。その点が日本のキリスト教には根本的に欠けているわけですよ。

森有正「光と闇」P.175