神の不在ではなく

理不尽な出来事。不条理な苦しみによって失われた命の話を見聞きするたびに、神がいるならなぜこのようなことが起こるのか?と問いたくなることがあります。確かに、聖書の神を信じるものにとって難しい問題だと思います。

 聖書は、神が存在しているゆえに、この世は善にあふれ、平和で安全であるとは語りません。その反対に、人は神から離れ、悪を行うようになり、この世に悪や苦しみが満ちたと告げます。その極みが、まったく正しい存在であった神の御子イエス・キリストが、人の罪ゆえに十字架で殺されたという不条理だろうとおもいます。

 これこそ、「神がいるなら、なぜ」という不条理の極みではないでしょうか?

 しかし、そのような不条理が行われたのは、神が不在だったからではなかったのであります。その逆に、父なる神はあえて、ご自分の御子を犠牲にするという痛みを引き受けられた。なぜなら、神はそれによって人をその罪から救おうとされたからでありました。それが神の愛です。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネの手紙1 4章9節〜10節

そして、神はキリストを死から復活させることで、この一時的な世がすべてではなく、永遠につづく神の国に入ることができる希望を私たちに与えてくださいました。


 究極的に言えば、聖書はこの一時的な世において、人間が幸せに生きることを目指す信仰を説いているのではありません。そうではなく、人は罪赦されなければならず、それゆえに、神の愛に出会い、罪赦され、一時的な世ではなく、永遠に続く神の国に入るようにと説いているのです。そして、その希望をいただいた信仰者は、この世の一時的な生活は、永遠への準備期間として大切にしつつも、究極的なものとはとらえません。実際、いにしえの信仰者たちは、永遠を思いながら、この世においては、迫害や悪、不条理があることに耐えてきました。

「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、
荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」ヘブライ人への手紙11章36節〜38節

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」ピリピ3章20節


 もし、悪や不条理が、神の不在のゆえ、ただ偶然に起こったとするならば、失われた命の意味を見出すことができません。それはつらいことです。しかし、真実で愛の神がおられることをを信じ、この世の生がすべてではなく、神の用意された永遠の世界が存在することを信じ、失われた命に対する神の永遠の御計らいを信じることにおいて、理不尽を嘆き悲しむ私たちは、慰めと平安をいただくことができるのではないでしょうか?

 神の不在ではなく、神の愛を信じることこそが、苦しみに対する本当の慰めと平安を与えてくれるのです。