聖書の権威を考えるとき押さえるべきいくつかのポイント

聖書

  • キリスト教信仰は、人間の相対立する見解や信頼できない思弁にではなく、神ご自身の自己啓示に基づくものである。
  • したがって、キリスト教信仰の使信は、人間の権威あることばにではなく、神御自身が啓示された言葉に根ざし、またそれによって限定されなければならない。
  • 聖書正典はどの書物なのか。この問いに答えるには、まず「ある特定の書物を人間が正典と認めること」と「正典の性質」との区別を理解する必要がある。
  • 教会はある特定の書物に対して後から権威つけることはできない。できることはただ、それらを神の啓示された言葉として受け取ることのみである。そのようにして教会が受け止めた書物がそのまま、常に教会の正典であった。
  • 聖書が神の言葉であると自己証言するその権威は、人間のなかに霊的変化が生じなければ受け入れられることはない。聖霊が人の罪深い目を開き、聖書の自己証言について個人的な確信を与えてくださる必要がある。
  • しかし、聖霊のこの働きは、ある人にだけ特異に働いたりはしない。聖書の自己証言が真正だと認めるのは、教会であり、それは聖霊の働きによってなされる。

<参考:グレックバーンセン The Concept and Importance of Canonicity>

 ちなみに、バルトは、聖書は神の啓示としてのイエス・キリストに関する人間的証言の書であって、神的権威があるとは認めませんね。聖霊が、聖書という誤りある人間的証言を用いて、聞き手または読み手に対して自己を開示し、聖霊によって神の啓示が出来事として生起するのだといいます。つまり、バルトにとっての「霊感」とは、文書としての聖書が「霊感」されているということではなく、聖霊によって、聖書を通して神が啓示する行為のことを「霊感」といっているわけです。

 そこが私の聖書に対する信仰と違う。そもそも、聖霊や父なる神やイエスキリストについて得られる情報は、その誤りあるとおっしゃる人間によって文書化された聖書に依存しているわけじゃないですか。文書としての聖書の「霊感」や権威を否定して、つまり、聖書には間違いがあるよ、と言っておいて、その聖書から「聖霊による神の啓示の出来事」なんて概念を引っ張ってきても、それも間違いじゃないの・・・という批判にどう答えるのでしょうか。

 書かれた文書としての聖書の霊感と権威を認めないなら、聖書から何を語っても、「聖書が間違ってりゃ、聖書からあなたが言っていることも、まちがいではないですか」となりませんか。

 記された聖書の霊感と権威を信じる信仰は大切です。そして、それは聖霊が与えてくれる確信なのです。