「今日救いが訪れた」(2017年1月22日 花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書19章1節〜10節

 今日も、もう、二度とめぐってこないこの日の礼拝を、ご一緒に捧げられることを、主に感謝いたします。
この場に来ることのできなかった一人一人も、目に見えない主イエスは、ともにいてくださっていることを信じて、平安を祈ります。

目に見えても見えなくても、わたしたちは主イエスの霊によって、ともに礼拝をささげる仲間です。

 今日の礼拝には、遠く青梅から仲間が来てくださいました。車で1時間半ほどかかるでしょうか。青梅あけぼの教会の方々です。歓迎します。

カトリックは、教会はひとつだと言いますけれども、プロテスタントは、目に見える教会と、見えない教会普遍的な教会ということをいいます。

ですから、目に見える地上の教会は、ちがっても、どの教派もどの教会も、主イエスが招いている一つの教会につながっています。

 そういうわけで、今日は初対面のようですけれども、実は神さまから見れば、同じ教会の青梅あけぼの教会の仲間と、顔を合わせることができました。うれしいですね。

 会社なら、「同業者」という言い方をしますけれども、「教会」は同業者ではなくて、「同労者」。同じ苦労を共にする仲間。喜びも共にする仲間。

そういうわけで、主にあって共に主を見上げましょう。


 さて、花小金井教会では、ルカの福音書を順番に読み進めているのです。そして今日は19章。大変有名な徴税人ザアカイのお話です。

 実は、わたしが26歳の時に、特別集会でバプテスマの決心をしたときに、聞いたお話が、このザアカイのお話しだったのです。

 教会に通い初めて、イエスさまのことを信じ始めていたのですけれど、どこまで信じたらバプテスマを受けたらいいのかがわからなかった。まだ、なにもわかっていない、いい加減なこんな自分では、だめなんじゃないか。そう思っていた時に、特別集会があって、講師の田口あきのり先生が、このザアカイのお話をなさったんです。

それで、その時、悟ったんですよ。ああ、自分もザアカイのように、登っていた木から、ただ降りればいいんだ。

そう思って、その時に配られた決心カードに、イエスさまを信じますと書いて、やがてバプテスマを受けたわけです。

水曜日の夜のお祈り会で、この話をしましたら、ある方が、「あなた、そんなにお金持だったんだね」と言われましたけれど。お金はなかったんですよ。ちょっとネガティブで、暗い青年だったのです。

でも、あれから24年。今、人々にこのザアカイのお話をするようになっている。神の救いの不思議さを思います。


さて、初めてこの聖書のお話を聞く方もおられるでしょうから、簡単に説明しましょう。

 エルサレムに向かって旅をしておられる主イエスは、エルサレムの手前の町、エリコに入ります。

そこで徴税人ザアカイと出会う。

徴税人とは、ユダヤの国の税金を集める人ではなく、自分たちユダヤを支配する、ローマ帝国の手下となって、ユダヤの仲間から税金を取り立てる仕事です。

ローマ帝国にしてみれば、直接ローマの役人が税金を集めれば、反感を買うわけですから、ユダヤの中から徴税人を立ててやらせた方がいい。そうすれば、あいつはユダヤ人なのに、仲間を裏切って、ローマの手先として働く「売国奴」だと、人々の怒りや不満を、みんな「徴税人」が引き受けてくれるわけですから。


さて、このザアカイは、その徴税人の頭で、金持ちだったのです。おそらく、隣の町から、エリコの街に入ってくる人々から、「通関税」を徴収していた、責任者だと言われます。

しかも、ローマに収める税額より、多く取り立てて、自分のぽっけに入れていた。蓄財していました。

それで、この徴税人は、金のためなら何でもする。金の亡者というイメージが持たれるようになった。


教会にも、ザアカイのお話の紙芝居があります。その紙芝居では、ザアカイは太っていて、脂ぎっていて、宝石を身につけた、いかにも、お金大好きな、おじさんのように描かれているわけです。

ザアカイというと、教会においても、すでにそういうイメージが出来上がっているわけです。

たしかに、ユダヤの人々にしてみれば、徴税人は「罪人」の代名詞でしかたら、身内から、徴税人だけは出してくれるなということだったと思います。

でも、立ち止まって、すこし考えてみたいのです。お金の好きな、脂ぎったザアカイ、というイメージを、一端すてて、白紙にして、よく考えてみたいのです。


なぜ、それほどまでに、仲間から嫌われ、罪人扱いされるような徴税人に、ザアカイはなったのだろうかと。

この「ザアカイ」という名前には意味があるのです。「きよい」とか「罪のない」という意味です。彼の両親はそういう期待を込めて、「ザアカイ」と名付けたのです。ところが今やザアカイは「きよく」も「罪のない」人でもなく、「罪人」の代表と言われる人になった。


なぜ、ザアカイが、そのような道を、自ら選んでいったのでしょう。想像が広がらないですか。

親への反発なのか、世間への反発か。それとも、ただ貧しくてその道しか選べなかったのか。想像は膨らみます。


 ただ一つ言えることは、ザアカイは今の自分に満足していたわけではなかっただろうということはいえる。

だからこそ、徴税人の頭という立場でありながら、いちじく桑の木によじ登るという、みっともないことをしてまで、主イエスを一目見たい、出会いたいと彼は思っていたわけだから。

これは、金に困らない、生活に困らない、満ち足りた人のすることではない。そうではなく、あきらかに、何かを強く求めている人の行動です。

ザアカイは、有り余る金を手に入れていながら、いや、そうであるからこそ、その金では満たされない、なにかを強く感じている。そうであるからこそ、ここまで滑稽な行動を取ったのでしょう。


金に困っているわけではないのに、なにか自分には欠けていると感じている人が登場するのは、先週の礼拝で読んだ金持ちの議員の話も同じでした。

社会的にも、宗教的にも、経済的にもすべて満たされている議員が、なぜ旅人で、なんの立場もない、イエスのところにやってきて、「永遠の命を受け継ぐには、何をしたらいいのですか」と真剣に質問したのか。

あの議員も、今の自分には、なにかが欠けていると感じていたから、恥も外聞もなく、主イエスのところにやってきたわけでしょう。

そして今わたしたちが、様々な状況を乗り越えて、この礼拝の場にやってきたのも、そういうことではないですか。わたしたちは、残念ながら、お金持ちではないかもしれません。足りないものも、問題も、沢山あるでしょう。

でも、そういう問題がなくなれば、解決すれば幸せなのだと思えないから、そういう目の前のことを超えて、もっと本質的な必要が満たされたいから。

目に見えることではなく、目に見えないからこそ、大切なことを、愛、平安、希望、喜びは、主イエスの中にこそあると、感じているからこそ、わたしたちは今、ここに集まって来たのではないですか。

人は、この不完全で限界ある地上において、完全に満足することも満たされることもない。でも、だからこそ、その心の渇きがあるからこそ、人は主イエスのところにやってくることができる。

そういう意味で、不安や寂しさ、むなしさは、むしろ決してなくなることのない、代わることのない神に、わたしたちを導く道しるべ。

ザアカイは、それは「神」ではなく、「金」だと思い込んでいたからこそ、友人、仲間から裏切り者といわれても、「金」を手に入れた。

人は裏切っても、金だけは裏切らないと、そう思っていたからこそ、彼は徴税人をすることができたのでしょう。

しかし、その「金」は、彼を救ってはくれなかった。だからこそ、ザアカイは主イエスを求めてやってきた。

 昔からこのザアカイのお話は、わかりやすいお話なので、子ども達の紙芝居にもなっていて、うちの教会にもありますけれども、脂ぎった太った悪人面のザアカイが、イエス様に出会って、やさしい、いい人になりましたという物語として、語られて来たわけです。

罪人のザアカイが、イエス様に出会って、悔い改めて、いい人になりましたというお話。

でも、本当にそうですか。ザアカイは本当に罪深かったのでしょうか。

そうではなく、むしろ、決して変わらない愛を、救いを、必死になって求めていた人だったのではないですか。ただ、それが「神」ではなく、「金」だと誤解していた。的を外していたという話ではないですか。

だからこそ、ザアカイは主イエスと出会って、すぐに方向転換した。あれほどこだわり、人から奪いとっていた「金」を、みんなに分け与えますと、思いっきり自由な人になった。

本当の愛を知ったから。変わることのない神の愛を、主イエスの言葉を通して、彼は体験し、「金」から自由にされたから。

つまり、ザアカイは主イエスに出会って、悪い人が、いい人になったのではなくて、もともと良い人として神に造られていたのに、その本当の自分を見失い、苦しんでいた。

そして人々から嫌われ、阻害され、木に登っていた、その上で、主イエスに声をかけられた、その言葉によって、彼は、本当の自分を、神に愛されている、素直な自分を、取り戻したのではないでしょうか。

そうであるならば、むしろこのお話が語っているメッセージは、ザアカイの表面的な仕事、行動だけで、あのザアカイは罪人だ、裏切り者だ、悪人だと、

仲間から排除していた人々の、罪なのではないでしょうか。

ザアカイに声をかけた主イエスに、周りの人々は言いました。

「あの人は罪深い男のところにいって宿をとった」と。

そもそも、ザアカイが木の上に登ったのは、群衆に遮られて、主イエスを見ることができなかったからでした。人々はあえてザアカイの前に立ちはだかったのかもしれません。

「罪深いおまえが来る所ではない」と、ザアカイを排除したので、彼は仕方なくいちじく桑の木に登ったのかもしれないのです。

このお話は、実は、ザアカイを罪人と決めつけて、排除する人々の、心の闇が、罪が、見え隠れしているのです。

人から仲間はずれにされる心の痛み、悲しみは大きい。

水曜日の夜のお祈り会の時に、この箇所を読みながら、ある人が、自分が仕事仲間から、排除されたときの、心の痛みを語ってくださいました。

学校のいじめの問題も、職場から居場所を失うこと、失業、リストラ、差別、仲間はずれ。

すべてにおいて、人が人を排除することは、深い悲しみをその人に与えること。
その悲しみは、やがて恨みとなり、復讐へと発展するかもしれません。

徴税人が、必要以上に人々から取り立てたのは、ただ、自分の私腹を肥やしたかったのか。それとも、自分たちを罪人と排除する人々への、恨みが、そうさせたのかもしれません。

だれが好き好んで、仲間や家族から嫌われるようなことを、奪いとるようなことをするでしょう。そこに、自分を受け入れてくれない人々への、恨みがあったのではないか。

そう考えることは、それほど間違ってはいないのではないか。


そうであるからこそ、ザアカイは、自分の名を呼んで、あなたの家に泊まりたいといってくださった、主イエスの言葉が、心のこそからうれしかったに違いない。

主イエスは、「徴税人よ、降りてきなさい」と言ったのではないのです。
「ザアカイよ」と名前を呼んでくださいました。

人々から愛されず、むしろ嫌われ排除されてきたザアカイを、
それゆえに、信じられるのは、裏切ることのないのは、「金」だけだと、
ますます金にすがり、人々から金を奪ってきた、ザアカイを

主イエスは、一言もとがめることなく、ただただ、その名を呼んでくださるのです。
「ザアカイよ」と。「急いで降りてきなさい」と

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、いや、「泊まることになっているのだ」「泊まらなければならないのだ」という、そういう言葉で、主イエスはザアカイに語りかけたのです。

それは、ザアカイが求めたからではない。そうではなく、神の側からザアカイを選び、名を呼び、声をかけてくださった出来事。

救いとは、この神の愛の呼びかけに、気づくことです。心に受け入れることです。

そして、神に愛されている本当の自分に、目が開かれること。心の目が開かれることに尽きる。

このメッセージの後、「いかなる恵みぞ」「アメージンググレース」を歌います。

作詞した、ジョン・ニュートンは、まだ奴隷制度が生きていた時代のイギリスに生まれ、黒人奴隷を輸送する「奴隷貿易」に携わって、富を得ていたのです。
彼の母は、敬虔なクリスチャンでした。幼いジョンニュートンに、聖書を読んで聞かせた母は、彼がわずか7歳で死んでしまうのです。今なら小学校1,2年生で、自分を愛してくれた母と死別することが、どれほど彼の心に大きな、大きな穴を開けたことでしょう。彼は、その底知れぬ穴を埋めるがごとく、「富」を求めて「奴隷貿易」に関わっていく。人を売り買いする、人を人とも思わぬ人間として、生きていく。

しかし、彼が22歳の時、主イエスは彼と出会ってくださいました。船が嵐に遭い、転覆の聞きにあったのです。海に呑まれそうな船の中で、彼は母の教えを思い出し、生まれて始めてえ必死に神に祈るのです。

すっかり忘れていた母の教えた、聖書の神を、主イエスに、彼は嵐の中で出会い、祈った。

そして命も守られた、このときの経験が、彼を徐々に変えていくことになり、やがて彼は奴隷船を降りて牧師になり、47歳の時に「アメージンググレース」を作詞しました。

直訳では、こういう歌詞です。
驚くべき恵み なんと甘美な響きよ
私のような ひどい人間さえ 救ってくださるとは
わたしはかつて迷っていたが、今は見つけられ
かつては見えていなかったが、今は見える

ジョンニュートンはそう歌いました。

ザアカイも、自分がいったい何を求めているのか見えなくて、
家族も仲間も傷つけ、自分も傷つけられ、そんな人間関係の嵐の中を

金だけを頼りに生きていたある日。

主イエスが声をかけてくださいました。

「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まりたい」と

主に愛され、受け入れられたこの一言が、ザアカイの心の目を開いた。
本当に大切なものが見えるようになった彼は、自分の持ち物を、周りの人々と分かち合い、共に生きる人になっていくのです。

それがザアカイの本当の姿だから。

この人も、アブラハムの子なのだからと、主は言われます。

神に選ばれ、愛されている人、ザアカイは自分を取り戻していく。

「人の子は、失われた人を探し出して救う」

わたしたちも、主イエスに名を呼ばれ、心の目が開かれ、

本当の自分へと、救いだされるために、今、ここに集っています。

ますます金と富だけが、支配するこの世界の中で、

人間が疎外され、排除される、この世界の中で、

本当の自分らしさを見失い、愛や優しさ、平安と希望を見失う度に、

わたしたちは、主イエスに出会いたくて、木に登るような思いで、礼拝に集い、

そして主イエスに、名を呼んでいただくのです。

ザアカイ、今日、あなたの家に、あなたの心に、泊まりたい。

いや、泊まらなければ、ならないのだ。

今、あなたの名を呼んでいる、主の声が聞こえますか。