ルカによる福音書7章36節〜50節
さわやかな朝ですね。
先週一週間、どのような出会いや、出来事があったでしょうか。
どのような、「心の思い」を、抱いて来られたでしょう。
朝、教会に来られる皆さんと、「おはようございます」と挨拶をします。
皆さんの、その笑顔の向こう側に、どんな一週間があったのかは、私にはまったくわかりませんし、
わたしの心の中も、わからないですよね。
そんな、わかりあえない1人1人が、
しかし、すべてを分かって、愛してくださっている主イエスのゆえに、
その喜びを分かち合いたくて、共に賛美を捧げたくて、
今日も、ここに、集められています。
今日も、証がありましたが、9月は、一ヶ月間、「教会学校月間」でした。
子どもから、大人まで、それぞれのクラスで、同じ神さまの言葉を分かち合える時間。
1人で聖書を読んでいても、気がつかない、聖書の豊かさ、奥深さに、出会える大切な時間ですね。
実は、水曜日のお昼と夜のお祈り会も、聖書の言葉を囲んで、語り合い祈ります。
9月からは、夜のお祈り会で、この日曜日のメッセージの箇所を、一緒に読んでいるのです。
今は、夜のお祈り会は、男性ばかりなのですけれども、いいですよ。
わたし1人では気づかない、聖書の深みを分かち合える。
ついでといっては、なんですが、そこで与えられた気づきが、説教にも生かされて、一石二鳥なんです。
どうぞ、お祈り会にも参加してくださいね。
さて今日のみ言葉。この出来事は、実に印象深く、心に残る出来事です。
何にもまして、印象深いのは、この「罪深い女」と言われる女性が、自分の涙でイエスさまの足を濡らし、髪の毛で拭うところでしょう。
福音書の中で、女性が涙を流す場面は、それほど多くはありません。ルカの福音書では、ここと、あと、何週間か前に、やもめの母が、1人息子を失った話を、礼拝のなかで読みましたけれども、その母に、イエスさまが、「もう泣かなくてよい」と言われた場面くらいでしょうか。
覚えておられますでしょうか。その時イエスさまは、息子を失った母親に、
「もう泣かなくてよい」
と言われたのです。泣いていた母に、「もう泣かなくていい」と言われて、
実際に、もう泣かなくてもいいように、この1人息子を蘇生させられたという、出来事を、数週間前に、わたしたちは読んだのです。
ところが、今日の箇所では、ご自分の足元で涙を流し続ける女性に、「もう泣かなくてよい」とは言われないのです。
そうではなく、むしろ、彼女が泣くままにしておられます。
その彼女の流す涙を、何も言わず、その足で、受けとめておられる、イエスさまの姿、とても、とても印象的なのです。
この彼女の涙は、いったいなんの涙だったのだろう。
そして、イエスさまは、なぜ、泣く彼女をとめようともしないで、その涙をすべて足に受けとめ、髪の毛で拭う彼女のその行為を、すべて受け止められたのだろう。
当時の食卓は、イスとテーブルではなかったのです。低い台の上に食事を置いて、その周りに横になって、左胸を下にしてですね、足を投げ出して、右手で食事を手にして食べたようなのです。
その投げ出されたイエスさまの足元に、彼女はいたのです。
その家は、ファリサイ派のシモンの家でした。
イエスさまに、反感をもっていたはずのファリサイ派のシモン。彼が招いた食卓でした。
当時の家は、オープンな造りだったので、誰でも入ってこれたのでしょう。
この町のだれもが、「罪深い女」と知っていた女性が、突然家に入ってきた。そして、イエスさまの足にふれた。
その時、シモンはこう思ったと書いてあります。
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」
つまり、「なんだ、罪深い女にされるままになって、このイエスという男は、大したことない男だ」と思ったのです。
シモンは、どうやら最初から、イエスさまのことをもてなそうとしていたのではなく、
この噂の男は、どの程度のものかと、「値踏み」しようとしていたらしい。
それは、後半で明らかになりますが、イエスさまを招いておきながら、シモンは、足を洗う水もださなかったことからしても、イエスさまに、好意があって、まねいているのではないことは、分かるわけです。むしろどんな男か、評価するための食事だった。
そしてよりにもよって、その席に、罪深い女性が飛び込んできたおかげで、見事「預言者落第」の評価を、イエスさまはくだされたのでした。
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」
この女性は、いったいどういう人だったのだろう。罪深い女としか、書かれていない。
ファリサイ派の彼は、「シモン」と、名前がはっきり書かれるのに、この女性は、罪深い女としか、書かれない。
名前を伏せているのだろうか。それとも、名前でよばれることさえなかった、哀れな人なのか。
この出来事は、読めば読むほど様々な想像が広がります。読む人の想像にまかされている部分が多い物語です。
ただ、おそらく彼女は、この食事の前に、どこかで、イエスさまに出会ったことはあるのでしょう。
そうでなければ、突然、この食卓に飛び込んで、主の足元で涙を流すことは、考えられないですから。
でも、いったい、この涙のわけは、なんなのか。
自分の罪をゆるしてくださる、イエスさまへの感謝の涙でしょうか?
それとも、自分の罪を悔いて流れる、謝罪の涙、ということでしょうか?
説教の準備をしながら、わたしはすっかり、考え込んでしまいました。いったい、なんで彼女は泣いているのだろう。
みなさんは、どう思われるでしょう?
実は、この説教の準備をしていた先週の金曜日。事務の仕事で教会にきていたOさんと、「いったい、彼女はなんで泣いたんでしょうね」と、語り合ったんです。
二人で緊急の教会学校を開催したんですよ。
そこで、Oさんから、わたしの目を開く言葉を聞きました。「女の人って、何でも泣けるからね」って。
「あ、そうか」と目が開きました。
わたしは、理屈で考えようとしていたんです。
この涙の理由は、なんだったのだろうって。
理屈じゃないんですよね。
こういう理由で、泣いていました、なんて、理屈で考えようとしていたこと自体、愚かなことだった。
そもそも涙のわけなど、言葉にできないのです。この女性は、一言も自分の気持ちなど、語っていないのです。
いや、そもそも言葉になどできないから、人は涙をながすのではないですか。
涙には、涙を流すことでしかあらわせない、その人のむき出しになった心がそこに現れている。
ずっと心の底にふたをしていた、その言葉にならない、本当の思いが、そこにあふれでている。
「言葉」に変換できない、その人の、本当の思い。むき出しになった心の現れ。
それは理屈で説明などできないのです。
ただ一つだけ、言えることは、
町中の人々から、あれは罪深い女と、いわれていた彼女が、
そうやって自分を裁く人の前には、決してみせられなかったはずの姿を、彼女の本当のむき出しになった心を、
今、イエスさまの前で・・・、このお方のまえでなら、すべてさらけ出すことができると、心の仮面を脱いだ本当の彼女が、そこにいるのだ、ということです。
このお方だけは、自分のすべてを受け止めてくださると、感じ取って、信じて、彼女はここで、涙をぼろぼろながしている。
だから、その彼女の涙を、イエスさまは、止めようとはなさらない。
誰の前にも見せることができなかった、ふたをしていた、彼女の本当の思いが、あふれ出た涙だから。
その彼女の心を、その流れ落ちる涙のすべてを、イエスさまは、なにもいわずに、ただ、その「み足」に受けとめてくださいました。
そして、髪の毛でその涙をぬぐって、主イエスの足に接吻し、香油を塗らずにはいられなかった、彼女の、その心の思いを、
そのまますべて、ただ、受けとめてくださいました。
そしてイエスさまはいわれます。
その彼女の涙も、髪の毛で拭って接吻し、香油をぬらずにはいられなかった、その彼女の心の思いのすべてを、
イエスさまは、「わたしに示した愛の大きさ」(47節)といってくださいました。
イエスさまの前に、本当の自分を、心を注ぎ出す捧げもの。
その場にいた人々には、おそらく、彼女が何をしているのか、分からない、まったく価値が見いだせない、わけのわからない行為と見えようとも、
イエスさまは、それを「わたしに示した愛の大きさ」といってくださいました。
その人の、本当の心を、隠されていた、本当の自分を、
主はすべて知っておられ、そのすべてを、受け止めてくださるお方。
このお方の前で、本当の自分と出会い、泣くことができる人は、幸いです。
イエスさまの弟子であったペトロも、そんな一人でした。
イエスさまが捕えられたあと、いったんは、逃げさったペトロ。
しかし、そんな自分がゆるせなかったのか、彼は、イエスさまが尋問を受けている、大祭司の官邸にやってくる。
そこで、その庭にいた女中たちに、おまえもあの男の仲間だと、問いつめられたとき、ペトロは、「あんな男など知らない」と、呪いの言葉さえ吐きながら、三度もイエスさまを否定した。
その瞬間、鶏がないて、かつてイエスさまがペトロに、「あなたは、鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないというよ」といわれた、イエスさまの言葉を思いだして、
ペトロは、はげしく、はげしく、泣いたのです。
ペトロは、何で泣いたのか。自分の罪に泣いたのか。悲しくて、悔しくて、泣いたのか。
そんな理屈はどうでもいいのです。そんなことは、だれにも分からない。ペトロでさえわからない。言葉になどできない。
ただ言えることは、ペトロは、そこで本当の自分と出会っているのです。
それまで気がつかない、認めたくもなかった、本当の自分に、「自分というものの正体」に、決定的に出会わされ、直面させられ、
そして、そのペトロのすべてを、すでにイエスさまは、「わたしは知っていたよ」と、語られる主の言葉に、
ペトロは押さえきれずに、鳴いたのです。
彼も、また、本当の自分自身と出会い、イエスさまの前で、涙を流すことができた。
ペトロも、そして、この罪深い女といわれていた、女性も、実に、幸いなのです。
この涙こそ、主イエスへの信仰だから。
本当の自分を知り、そのすべてをすでにゆるし受け入れてくださるお方に、
まっすぐに思いを注ぐことが、「信仰」であり、イエスさまは、その「あなたの信仰が、あなたを救った」と言ってくださるからです。
しかし、一方で、本当の自分の姿が見えないままに、この女性を見下していた、ファリサイ派のシモンに、
イエスさまは、500デナリオンの借金と50デナリオンの借金を、帳消しにしてもらった人の譬え話をなさるのです。
この二人の、どちらが多く、金貸しを愛するか。そう問われたシモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、イエスさまも「そのとおりだ」といわれます。
わたしたちは、この譬えを、この女性が500デナリオン。そしてシモンが50デナリオンの借金が赦された人と、とらえて読むかもしれません。
そして、この女性のほうが、沢山の罪をゆるされているから、彼女は、イエスさまを多く愛するのだと、そういうことをいっておられると、理解するかもしれません。
しかし、はたしてシモンは、この女性が500で、わたしは50だと、この話を聞いただろうか。
そもそも、自分自身の罪の問題、本当の自分の姿、自分の正体に、向き合っていたのだろうか。
50デナリオンでろうが、なんだろうが、自分にそのような負債が、罪があることに、向き合っていないからこそ、
本当の自分に、まだ出会えていないからこそ、彼は、この女性を見下し、イエスさまをさえ、値踏みしようとしているのです。
自分が分かっていないからこそ、自分と出会っていないからこそ、人は他者をさばくことができるのだから。
わたしたちは、神にゆるされています。500であろうが50であろうが、1万であろうが、人には返せない借金を、罪を、神は帳消しにしてくださるために、主イエスを、私たちの罪の贖いとして、十字架につけられたのですから。
この神の赦しに、十字架以外の、人間の犠牲も愛の奉仕も、必要ありません。
あるのは、本当の自分が、ふたをしているその正体を、主はすべて知り、赦されていることに、出会うことなのです。
神によって明らかにされる、ほかでもない、本当の自分自身に、自分の正体に、出会わされ、
主のまえに、泣くこと。本当の自分として、主の前に自分自身を捧げることだけなのです。
ファリサイ派のシモンは、イエスさまを信じようとしないのではないのです。
主イエスによってもたらされる、本当の自分との出会いから、遠ざかろうとしている。
罪ゆるされなければならない、本当の自分に向き合うことをから、遠ざかろうとしている。
ですから、むしろこの出来事は、シモンに向かってなされている、イエスさまの愛の呼びかけ、招きでもあるのです。
この女性がふたをしていた本当の自分を、イエスさまの前にさらけ出したように、
シモンよ、あなたも神に愛され、すでに、ゆるされていることに、気づいてほしい。
「あなたの罪は赦された」と、神の赦しを宣言する言葉を、あなたも必要としていることに、目覚めてほしい。
そうシモンを招く、イエスさまの姿を、わたしはここから読みとります。
なぜなら、わたしたちはしばしば、この女性のようであるよりも、このシモンのような日常を、生きてしまうからです。
イエスさまのまえに、本当の自分をさらして涙をながし、自分自身を愛の捧げものとする彼女であるよりも、
むしろ、本当の自分に気がつかずに、このシモンのように、「あの人、この人」自分ではない誰かの「罪」を見つづけて、
平安のない日々を、生きてしまうからです。
イエスさまは、この女性と出会うと共に、シモンとも出会われたいと願ったからこそ、「シモン」と名前を呼び掛け、たとえ話をしてくださったのだから。
シモンよ、あなたが、愛することの出来ないわけを、この彼女のように、愛することの出来ないわけに気づいてほしいと、シモンに譬え話をしてくださったのだから。
本当の自分と向き合い、主イエスに心を注ぐ彼女の、その信仰が、彼女を救ったように、
その言葉を聞いていたであろう、シモンにも、そして、この女性のようにはなれない、1人1人にも、
主は語りかけ、招いてくださっているはず。
500デナリオンも50デナリオンも、関係ない。みんな帳消しにしたのだ。あなたは神に赦されている。愛されている。
だから恐れなくていい。本当の自分に向き合っていい。あなたは、赦されているのだから。
「あなたの罪は赦された」
この主イエスの宣言を、わたしへの宣言と受け入れる人は、幸いです。実に幸いです。
その信仰が、あなたを救ったと、イエスさまは言われます。
安心していきなさい、と主イエスは言われます。
そう言われても、周りの状況は、なにもかわらないかもしれません。
この罪深い女と、言われていた女性も、
この後、彼女の取り巻く環境、人々の偏見、彼女の生活の生きづらさは、なにも変わらないかもしれません。
わたしたちも、ここから家に帰っても、何も状況は変わっていないでしょう。
それでも、主イエスはいわれます。安心していきなさい。平安のなかをいきなさいと。
なぜなら、あなたは本当の居場所を、再び見出したのだから。
すでに赦され、すでに受け入れられ、すでに、神に愛されていた自分という、
生きるべき場所を、見出したのだから。
苦しみの時も、悲しみの時も、恐れの時も、そこでなら、心安らかに生きていける、
神に愛され、赦されている、自分という、本当の居場所を、見出したのだから。
「安心していきなさい」
そう、主イエスはいわれます。