花小金井教会にきてから、教会でわたしのことを「先生」と呼ばないてくださいねって言い続けてきたんですけど、
やっぱり、みなさんある意味、癖になっていて、
「先生」っていってから、「あ、すいません。藤井牧師」なんて
なんども、なんども、謝らせてしまって、
なんだか、意地悪をしているみたいで、、申し訳ないなって思うのですけれども、
やっぱり、ここはあきらめないで、この牧師を「先生」とよぶ
「日本のプロテスタント教会特有の文化」に
一緒に、チャレンジしていきたいんですよ。
その理由の一つですけど、ずいぶん前に、フェイスブックに書いて、多くの牧師仲間から共感を得た文章を、ここにもアップしておきますね。
牧師って友達が少ないんですよ。
なぜなら、教会の人から「先生」と呼ばれてしまうから。
わたしは何度かある人たちに、
「先生」と呼ばないでくださいっていったことがあるけど、
けっきょくだめでした。
「先生」と呼ぶ人と呼ばれる人が、
友達になるのは難しいんですよ。
学校の先生とか政治家も先生と呼ばれるけど、同じでしょう。
先生と呼ばれる人と呼ぶ人が友達になるのは難しい。
「先生」と呼ぶ人の前では、「先生らしく」振る舞おうとするからね。
なので、牧師を先生と呼ぶプロテスタント教会の伝統が、
牧師を結局孤独にしているかもしれない、
ということに気づいてほしいな。
イエス様でさえ弟子たちに向かって、
あなた方を友と呼ぶよっていわれたんです。
だからクリスチャンにとって、
イエス様は先生と生徒という遠い関係ではなく、
なんでも分かち合える一番身近な友という関係。
でも牧師は先生。近寄りがたい人?
その点、教会の外の人は、私のことを藤井さんと呼んでくれるので、ホッとします。
パパ友とかね。友達になれる。そんな互いに腹を割った関係の中にこそ、神さまはおられるんじゃないのかなと、思ったりする。
もし、職名で呼ぶのなら、藤井牧師と呼んでほしいです。
要するに、「先生」って呼ばれるときの、その人との心理的距離感が、虚しいんだね。
でも、そんなことを言うわたしも、同僚の牧師さんを、●●先生と呼んでしまう。
「先生」とつけないと、失礼かなと思うから。
それが、その牧師さんとの信頼関係、心理的距離感を表している、ということでもあるのだけど。
ああ、この「先生」とよぶ文化。なんとかしてほしい。