思えば、わたし8年半前酒田に来ることになる前、
まだ決断できずに、いろいろ悩んでいたところに、
最終的には母教会の山形教会の当時の牧師先生から、
「来てください」という電話をいただき、
当時仕えていた教会を辞任する決断ができたことを思いだしています。
そして今回、酒田を離れる決断にみちびかれたのも、
わたしを必要としてくれる教会がいて、
来てほしいと声をかけてくださったからでした。
でも、最初そのお話をいただいた時、
わたしは、今、酒田からはなれるわけにはいかないと、「まよいつつ」も、お断りしました。
そう、わたしの心のどこかで
「ここを離れるわけにはいかない」といっているのは、単なる自分のプライドや、
この場所での働きを、もっと握っていたい、という自分の「エゴ」じゃないのかという、
そこへの気付きが「迷い」を生んでいたのだと、今になって思います。
その教会の方は、そのわたしのなかにあるその「迷い」を、感じ取るようにして、
なお祈り、神さまの御心を確認するために、もう一度わたしに連絡してきてくださり、わざわざ遠く酒田にまで来てお話を聞くことになりました。
その熱意にふれて、
ああ、これは神さまからの招きなんだ、と、「迷い」の霧も晴れはじめ、
酒田を離れる決断へと至ったのでした。
人間の思い、考えは、自分自身をさえ欺きます。自己欺瞞や、自己正当化です。
しかし、思い通りにならない壁や障害を前にするとき、そのような自己欺瞞、自己正当化の心は問われ始めます。
神が導かれる歩みにおいては、そういうプロセスをへて、本当の自分の心を向き合わせられ、本質に立ち返らされて行くのです。
それは、ある意味、恥も外聞もかなぐり捨てさせ、
あるものをもとめさせていく祈り、行動となり、
いまあるものを、捨てさせていく、祈り、行動となっていく
もし、そういう出来事が起こるなら、
それは、神さまがそこで働き、与えてくださっている出来事、決断なのだと、
わたし自身、
今回の出来事を通して、
深く学んだのでした。
マタイによる福音書7章7節〜
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」
マルコによる福音書8章34節
「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」