当たり前に、そこにありつづける、ありがたさ

shuichifujii2014-11-21

 今日は、朝からバスに乗って、妻が山形教会に

わたしは、日曜日の聖書のおはなしの準備など

今日は、この時期にしてはあまりにも天気がよく、鳥海山がよく見える一日。

午後には数年ぶりに、友人が訪ねてくださいました。

その友人は、まだ、わたしたちが、今の教会の場所に移る前

小さな借家に住みながら、教会の看板を出していた頃のことしか知らないので、

まずその以前の教会の場所にいってみたのだそうです。

そうしたら、借家も何もなくなっていて、驚いたようでした。

幸い、電信柱の教会の広告を見つけて、無事に今の場所にたどり着けて良かったです。

教会は、本来は建物のことではなく、神さまを礼拝する人々の集まりを、教会というのだけれど、

それじゃあ、場所や建物はどうでもいい、ということにはならないんですよね。

そこにさえ行けば、集うための建物があり、一緒にお祈りしてくれる人がいる、ということの当たり前さと、ありがたさは、

それを失ってみて、あらためて感じるものなんでしょうね。