寒くなってきました

shuichifujii2014-10-29


今日の午前中はIさんが来て、一緒にお祈り

週に一度の共なる祈りの時間が、どれほどお互いを励まし、支えているかは、

天の父がご存じのこと。


さて、先日26日の週報の巻頭言と、わたしが不在の中、のぞみ教会の礼拝で、仙台教会のYさんが語ってくださった、聖書のメッセージから、最初と、最後部分だけをアップさせていただきますね(Yさん、勝手な編集、掲載、すいません)

「愛の動機」(26日週報巻頭言)
  今放映中の、NHKの朝のドラマ「マッサン」は、日本で初めて国産のウイスキーを作った竹鶴政孝と英国人妻リタをモデルにしたお話です。

 先週は主人公の勤め先の住吉酒造が倒産の危機で、会社を救うために、社長の娘、優子のもとに金持ちとの見合い話がきた出来事でした。一旦は優子の気持ちを思い、見合いを断った両親でしたが、その後、銀行からの融資が撤回され、経営危機に陥るなかで、会社存続のために縁談を受け入れていく、というストーリーでした。

 さて親が子どもを産み、育てていく。それはもちろん、自分の会社存続のためであるわけがありません。自分の老後の面倒を見てくれるためでもないはずです。
 そのように、子どもから自分がなにか利益を得ようとして、こどものために何かをする。お金を使う。それは、子を愛しているのではなく、「いま、あなたに投資しておけば、、いつか自分が助かる」という自分のためだけの動機であり、取引です。

 人格と人格を信頼関係で繋いでくれるもの。それは、条件付きの取引ではなく、無条件に受け入れつづける愛の関係であることは、いうまでもありません。

 親は自分のために子どもを育てるのではなく、夫は自分のために妻を愛するのでもない。相手が自分の思い通りにならなくても、愛したいから愛する。これはまさに、神が人を愛した愛であり、わたしたちを繋いでくれる、本当の愛なのです。

 さて教会も、伝道を行う動機は愛です。福音を伝える動機が、自分の教会を大きくするためなら、それは「取引」であり、愛ではありません。

 ただ、目の前の人に、神さまがどれほどあなたを愛しているかを伝えたい。福音の種をまき続けたい。その愛の動機こそが、ここに、のぞみ教会が存在し、福音を伝えつづけている唯一の理由なのです。

「心の声を聴きたい」(26日メッセージ最初と最後の部分から)

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」ローマの信徒への手紙10章17節

「心の声」、人の心というと心臓がある胸をさしてしまいます。もちろんそれで十分通じていますが、頭の先から足先まで人間は心に満たされているのだと思います。目の動きで、顔色で、肩の震えで、指先で声に出さずとも心の動きを感じ取ることができます。仕事をしている中で、友達関係の中で、家族と過ごしている中でそして信仰生活をしている中で、そして、声を出してはいないものの本当は聞いてほしい、知ってほしい、分かってほしい声があることに気づきます・・・・・


・・・・・神にも人にも聞くことをやめ、諦めてしまっている自分がいます。そこには、自分の一方的な思いを通してしか見ない自らの姿が透けて見えます。本日の聖書の箇所では、「信仰は聞くことによるものであり、聞くことは、キリストの言葉から来るのである。」と言っています。この言葉と透けて見える自分の姿を重ねあわせてみます。すると、キリストに聞くことが信仰であり、聞くこと、問いかけからキリストの心の声を感じとり、そしてそれがキリストの言葉となるのであり、信仰の原点であると語っているのだと気づきます。そのことで初めて、人の心の声を聴けるのだと思います。聞くことができた人の心の声は、自分の心の声と会話し、人を思いやる、人を尊いと思う関係につながることができるのだと思います。

最後に、箴言16章2、3、9節を読ませていただきます。読みやすく編集された内容になっていますが、「人が行う道は、すべて自分の目には清く見える。しかし、主はその精神を質される。あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。人は心に自分の道を思いめぐらす。しかし人の歩みを確かにするのは主である」
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」・・・。この言葉に、人の心の声を聴く原点があるのだと思います。