「草でいい」

・・・主(神)はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。

わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。

人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。

風がその上に吹けば、消えうせ

生えていた所を知る者もなくなる・・・

これは、今朝読んだ旧約聖書詩篇103編のなかの言葉

「生えていた所を知る者もなくなる・・・・」という言葉が、とても心に響く。

100年前に生きていた人のことなど考えしないでいきているように、わたしたちも、そのうち生きていたことさえ、だれからも忘れられる日が来る。

「そんな人生むなしい」なんてことをいいたいんじゃない。そうではなくて、わたしはこの言葉にとても救われる気がした。

人は、草でいいのだ。生えていたことさえ忘れられる、草でいい。

これはなんという自由と解放を与えてくれる言葉だろう。

草は、自分の価値を認めてほしくて、毎日、あくせく生きてなどいない。

自分の存在が、後世にまで覚えられてほしいと願って、頑張ってなどいない。

神に造られ、この世にうまれた命を、ただ精一杯生きているだけ。

人間だけが、自分のしたこと、しなかったことで、「ああ、自分には価値がない」とか、「自分って大したものだ」とか、そんなことを思っては一喜一憂している。

それは、自分の命を存在させた神をわすれた、人間の迷いの言葉でしかない。

草は、神がそこで生えるようにと与えた場所で生え、生きるようにと定めた時を生き、枯れていけばいいのだ。

神が与えた命には、無条件に価値があるのだから。

雑な人の目には、雑草としかみえない草も、

実は二度とその場所に、その時間に、同じ草は生えない、永遠に価値ある命をいきていることは、神さまだけが知っている。

「神はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた」

だから、草として精一杯、定められた時を、神さまを見上げて生きていけばいい。