・・・主(神)はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消えうせ
生えていた所を知る者もなくなる・・・
「生えていた所を知る者もなくなる・・・・」という言葉が、とても心に響く。
100年前に生きていた人のことなど考えしないでいきているように、わたしたちも、そのうち生きていたことさえ、だれからも忘れられる日が来る。
「そんな人生むなしい」なんてことをいいたいんじゃない。そうではなくて、わたしはこの言葉にとても救われる気がした。
人は、草でいいのだ。生えていたことさえ忘れられる、草でいい。
これはなんという自由と解放を与えてくれる言葉だろう。
草は、自分の価値を認めてほしくて、毎日、あくせく生きてなどいない。
自分の存在が、後世にまで覚えられてほしいと願って、頑張ってなどいない。
神に造られ、この世にうまれた命を、ただ精一杯生きているだけ。
人間だけが、自分のしたこと、しなかったことで、「ああ、自分には価値がない」とか、「自分って大したものだ」とか、そんなことを思っては一喜一憂している。
それは、自分の命を存在させた神をわすれた、人間の迷いの言葉でしかない。
草は、神がそこで生えるようにと与えた場所で生え、生きるようにと定めた時を生き、枯れていけばいいのだ。
神が与えた命には、無条件に価値があるのだから。
雑な人の目には、雑草としかみえない草も、
実は二度とその場所に、その時間に、同じ草は生えない、永遠に価値ある命をいきていることは、神さまだけが知っている。
「神はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた」
だから、草として精一杯、定められた時を、神さまを見上げて生きていけばいい。