神の愛を実感する道

「父なる神の愛」というけれど、どうやったら実感できるのか、という方がいらっしゃいます。

 神の愛を実感したい。 クリスチャンでも、そう考える人はいるでしょう。


 さて、わたしには3人の子がいます。母親は毎日、こどもたちのために様々な心遣いをしています。家族の食事を準備し、健康に配慮し、家の掃除、洗濯を毎日しています。体が疲れていても、自分の事を後回しにして、子どもたちのために働いています。


 しかし、こどもたちは、毎日3食、目の前に食事がならぶことの背景にある、親の愛と配慮を、すべて知るわけがありません。


 親と共に生きていることで、守られていること、支えられていること、沢山の配慮と愛を受けていること。

 親の私たちも、子どもたちにわざわざ、「親の愛を実感しなさい」と恩着せがましく言うことなど、ありません。そんなことを言った瞬間に、それは「愛」ではなくこどもから報酬を求める「取引」になるからです。

 やがて、自分が子どもを育てる立場になった時に、「親の愛」に気がつけばいいんです。というか、親にならなければ、親が子を愛する愛など分かりようもありません。


「天の親の愛を実感できない」

ですから、それは、ある意味当然なのです。天の親は、「親の愛を実感しなさい」と恩着せがまいことを言われるわけもなく、なんの見返りも求めず、毎日わたしたちが生きるために、あらゆる配慮と愛を注ぎ続けておられるのですから。

わたしたちが知らないはるか昔に、そっと、わたしたちの罪を赦してくださるために、神の独り子イエスさまを、十字架の上に犠牲になさる苦しみさえ受けられて・・・・

なので、要するに、わたしたちは恩知らずな子なのです。常に注がれている親の愛をあたりまえのように受けながら、愛されていない、愛を実感できないなどと、親に当たり散らしている反抗期の子どものようなものなのです。

そうであっても、天の親は、子を愛し続けることに、なんのかわりもありません。悪い子も、いい子も、わけ隔てなく愛する親。それが天の父ですから。

ですから、その天の親の愛を実感できるとするなら、それはただ、親が子に「愛しているよ」と言ってくれる言葉を、まっすぐに信じていきることだけです。

「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。」

この聖書のみ言葉を、天の親から自分への愛の語りかけとしてまっすぐに受け止め信じることが、神の愛を実感する唯一の道なのです。