「知っていてくださる主」(2月24日のぞみ教会週報巻頭言)

 マタイによる福音書で、イエスさまが教えられた最後の教えは、最後の審判の時に、人は羊と山羊のように分けられるというたとえです。栄光に輝き、天使たちを皆従えてやってこらるイエスさまが、すべての国の民を正しく裁くという壮大なイメージが語られています。

 さて、羊とヤギを分けるように、人が祝福と罰に分けられるときの、その基準は、実に小さいことでした。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 わたしとはもう一度来られるイエスさまのことでしょう。そして、ある人がおなかをすかしている時に、食べ物を上げ、のどが渇いている時に、飲み物を与え、旅をしている時に、宿を貸し、裸でいるときに、着物を着せてあげ、病気や牢獄にいるときに、励ますために訪ねることは、イエスさまにしたことだといわれています。
 それら一つ一つの行いは、小さな行為です。命を捨てるとか、財産を捨てるとか、大きな犠牲を払うようなことではありません。誰にでもできることですし、極端にいえば、笑顔で挨拶したとか、一言優しい言葉をかけてあげたとか、そういうことでもいいのでしょう。
 それほど小さなことなので、自分がいったい、それをしたのかさえ忘れてしまうほどです。しかし、そんな小さなことを、天の父である神さまは、全部ちゃんと覚えていてくださり、報いてくださる。そんな励ましと希望を、わたしはこの箇所から感じます。
 実際、この羊の側に分けられた人たちは、「自分たちは、いつ、あなたに、そんな良いことをしましたか」と驚いています。彼らは自分のしたことを、全然意識していないのです。

 わたしたちは、愛することにおいて、失敗すること、思うように行かないこともあるでしょう。そんなとき、自分を責め、神様にも責められているように感じることがあるかもしれません。しかし、神さまの愛はかわらないどころか、自分でも忘れていた愛の業を、神さまはちゃんと覚えていて報いてくださるのです。ですから、自分の行いを意識しすぎないようにしましょう。大丈夫です。神さまの愛を、まっすぐに信じ、今週も歩んでいきましょう。