弱い者の交わり

メモ

 悲しみを友として受け入れるとても大切な方法は、その悲しみを一人で負うのではなく、それを受け止めてくれる誰かとともに担うことです。わたしたちはたいてい、苦しみを他人の目から隠します。ごく親しい友に対してもそうです。
 孤独感にさいなまれるとき、信頼している誰かのところに行き、「さびしくてたまらないから、そばにいて支えてほしい」と言えるでしょうか。心配でならないとき、性的な葛藤があるとき、怒りや苦々し思いが湧いてくるとき、友のところに行き、自分のそばにいて苦しみを共に受け止めてほしいと頼めるでしょうか。むしろわたしたちは、次のように考えたり、話したりしがちでしょう。「こんなことで友達をわずらわせたくない。みんな自分の問題で精一杯なのだから」
 しかし実際は、自分の心の葛藤を共に打ち明けることは、友を尊重するということです。わたしたちも、もし友が自分の恐れや恥ずかしい気持ちを隠しているなら、「どうして話してくれないんだ。秘密にしているなんて水臭いじゃないか」と言われないでしょうか。
 もちろん、誰もがわたしたちの密やかな苦しみを受け止められるわけではありません。しかし、もしわたしたちが霊的な成熟を心から求めているなら、神は必要な友を必ず送ってくださると私は確信しています。

「いま、ここに生きる」ヘンリ・ナーウィン