ある牧師さんのブログから
カトリックの高木慶子シスターが「はい ありがとう ごめんなさい 母の祈り」(聖母の騎士社刊)で、「母の偉大さは、成長した子供によって評価してくれる」との言葉を引用し、このように述べておられました。「二千年間、世界の多くの人々は、マリア様を偉大な母としてたたえてきましたが、このマリア様は、じつはわたしこそ死刑囚の母親でございます。と名乗り出んばかり、十字架に立っておられた方です。
先日、万引きした子どもを連れて、一店一店おわびまわりをしておられたお母さんと出会いました。このお母さんにとっては、どんなにつらい道のりだったことでしょう。『この子を連れないでわたしだけでと思いましたが、子どもがしたことでもあり、いっしょにまわっております。』と頭を深くさげらておられました。
万引きしたことはけっしてよいことではないにしても、この恥ずべきとき、わたしがこの子の母親でございます。おゆるしくださいと、子どもとともにわびを言える勇気ある母親を持ったこの子どもは、きっとりっぱに成長されることとわたしも信じております。」と述べておりました。
母マリアのすごさとは、イエスさまを宿されたということよりも、自分の子が、つけられている十字架のそばに立ち続けたところにある、という見かたはわたしにとって新鮮な視点でした。
にげないで、子どもとともにわびを言える勇気。考えさせられます。
じぶんなら、子どもを叱ったり責めるだけの安全圏ににげこむんじゃないかな。男は、自分のプライドを守ることばかり考えるもの。
イエスさまの男の弟子たちが、十字架につけられていくイエスさまをみ捨てて、みんな安全なところに逃げ去ってしまったように・・・
母はやはり偉大だ。