武者修行者なでしこ

 米国の女子サッカーが、アッパーミドルクラスの、経済的に安定した層がプレーするスポーツであるのに対して、なでしこたちは持たざる者の武者修行者たちであった、という対比が興味深い

ナショナリズムと無縁の感動」姜尚中(カン・サンジュン)さん 朝日朝刊2011年7月26日
姜尚中(カン・サンジュン)さん=東京大教授

勝戦を見ました。感動的な勝利でした。私も、私の家族も跳び上がって喜びました。

これまで一度も米国に勝ったことがない日本が、なぜ勝てたのか。さらにこの勝利がどういう意味を持つのか。私なりに考えてみました。

聞くところによると、「なでしこジャパン」の選手たちは、多くが働きながら競技を続け、経済的に恵まれない境遇で生きてきたそうです。プレーする場を求めて海外に出て、ディアスポラ流浪の民)的な人生を歩んできた選手も少なくありません。Jリーグで活躍し、海外のクラブから多額の金額を提示される男子サッカーのスターとは、まったく違う環境から飛び出してきたヒロインです。

彼女らは「なでしこ」というエレガントな名称を冠されてはいますが、その名とは裏腹に草の根的なところから出てきました。持たざる者たちが、海外で武者修行を積み、ほとんど誰も注目しない中で、ドイツに集ってきた。あたかも、梁山泊に集結する強者(つわもの)のごとき彼女らが、世界最高の大会の、しかも決勝戦で大番狂わせを演じて世界の頂点に立ったのです。

ついこの間まで、彼女たちのことなど、まったく知らなかった多くの国民が、私も私の家族もまた、彼女らに感動し、熱狂し、最大級の賛辞を贈りました。

■悲壮感なき快挙

日本は、3・11以降、震災、津波原発、政治の不毛という絶望的な状況に置かれています。そこに彗星(すい・せい)のごとく現れた「なでしこ」には、日本社会の閉塞(へい・そく)感に風穴をあける物語が詰まっていたのです。単に優勝したから素晴らしいのではないのです。

ただ、不思議なことに、国をあげての熱狂にもかかわらず、選手も国民も、ナショナリズム的な高揚感とは無縁だったように思います。

五輪などスポーツの国際大会に臨む選手たちが、一身に国を背負い、国家の大きな物語の中に自己を投影して、悲壮感すら漂わせている姿を見たことがあるでしょう。軽やかに、爽やかにピッチを駆け回る「なでしこ」の姿に、そんなクサさを、まったく感じることがありませんでした。

「なでしこ」は、決して恵まれているとは言えない、それぞれの競技者人生を背負って、この大会に臨んでいたのではないでしょうか。無名の人、不遇の人が、けなげとしか言いようがない姿でもって、みんなができないと思っていた快挙を成し遂げた。

そんな選手たち一人ひとりの小さな物語への共感が感動となって広がったのであって、日本国への愛国心を「なでしこ」に映していたわけではないのです。

今の日本では、国家の大きな物語に感情移入する心境になれなかったのでしょう。日の丸をつけたユニホームを身につけていても、「なでしこ」がナショナリズムと無縁に見えたのは、つまりは、そういうことだと考えています。

■海外でもまれて

決勝で日本に敗れた米国についても、少し考えてみました。

米国において、スポーツは社会の下層にいる人たちが、アメリカンドリームをつかむための手段になっています。その主役は、多くの場合、有色人種です。

しかし今回の代表チームの中心は、白人でした。なぜでしょうか。それは、欧州と違って、米国で女子サッカーは、近ごろは人気があるとはいえ、他のスポーツに比べてお金にならないからです。米国の女子サッカーは、アッパーミドルクラスの、経済的に安定した層がプレーするスポーツであって、アメリカンドリームをつかむためのものではない。

大きな貧富の格差を抱え、多様な民族が織りなす、ある種の混沌(こんとん)が米国の強みです。しかしアッパーミドルの白人を中心に構成された今回の代表チームは、その強みを発揮できなかったと言えるのではないでしょうか。

さらに、米国代表の多くが国内リーグでプレーしています。対する「なでしこ」は、海外リーグでもまれ、はい上がってきた選手たちです。外見は日本人ですが、ドメスティックではない。「グローバル化したメード・イン・ジャパン」とでも呼ぶべき存在です。

最後に、そんな選手たちをまとめ上げた佐々木則夫監督にも賛辞を贈りたいと思います。

決勝のPK戦の前、選手たちが笑顔で佐々木監督を囲んでいる姿を見ました。1964年の東京五輪で優勝したバレーボール女子チーム、いわゆる「東洋の魔女」を率いた大松博文監督は、規律を徹底し、「おれについてこい」という名言のもと、選手を厳しく指導したことで知られています。大松流の指導では、梁山泊の強者の角を矯める結果になっていたでしょう。お見事でした。

(聞き手・秋山惣一郎)

50年生まれ。専門は政治学、政治思想史。国際基督教大助教授などを経て、04年から現職。著書に「愛国の作法」など。