『遊びの精神』

「遊びは、クリスチャンにとって最も崇高な召しの一つだ。私たちの生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。」(117)

「なんとおとなげない、無駄で役に立たない、と思われるだろうか? 確かにある種の遊びはあまりにも高くつくので、考えなければならない。だが、遊び自体は素晴らしく、正当で、敬虔な仕事だ。なぜ敬虔なのか?それは役に立たないからだ。遊びは本来役に立たないものなのだ。
では、『役に立たない』というのは、どういう意味なのだろう。それは、『役に立つ』とは何かを考えると分かってくる。役に立つというのは、何かを成し遂げて、他の何かの益になるということだ。役に立つものや、役に立つ活動や練習というのは、目標がそのもの以外にある。
もしお金を稼ぐために働くとしたら、私たちは働くために働いているのではない。金銭と言う目的のために働く。私たちが金銭を必要とするのは、自分や家族の必要のため、教会を支えるため、隣人を助けるためだ。私たちが働くのは、他の人々に仕えるためだ。つまり、他の人の車を直し、他の人の家を建て、他の人を教え、他の人を法廷で弁護する。働くことは素晴らしいことで、しなければならないし、できるかぎり楽しみたい。しかし仕事は、仕事以外の何かのための行為である。」(122-3)

「何か別の目的のためにすることは、実際多くあって、それは正しく良いことである。おそらく、私たちが日々していることのほとんどが、何か別のためなのだと思う。だが考えてみよう。もしすべてのことが何か他のことのためであったら、つまり、あらゆることが何か別の目的のための手段であるなら、どこに終着点があるのだろう? もし、何にも、それ自体になす価値がないのなら、いったい全体、生きる真の意味はどこにあるのか? もし、あらゆることが他の何かのために役に立つことなら、役に立つことの最終目的はどこにあるのだろう?
『役に立たない』こと、つまり、それ自体のためになされることが非常に大切で、死活問題とも言える理由がここにある。『役に立たないこと』こそが、人生の最終目的なのだ。もちろん、それは遊びだけではない。私たちが礼拝するのに、礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく時を過ごすのは、それ自体が楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何か別の目標達成に役立つからではない。私たちが遊ぶのも、それが本当の遊びなら、ただひたすら遊びたいからなのだ。」(126-7)