礼拝させていただけることこそ恵み

 昨日の日曜日は、午前中、山形教会で礼拝。そして帰ってきて、4時から酒田で礼拝。

 IGさんと、HKさん、ご主人のHNさん、娘さんのHSさん。そして私たち家族。

 第一日曜日は、酒田での礼拝の開始時間を変更させていただき、申し訳なく思っています。

 しかしそれでも集われる方々のなかに、信仰の命を感じ取ります。

 神を礼拝せずにはいられない。人としての魂の渇き。

 人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだ、とイエスさまの言われることが、理屈ではなく、魂の底で理解できることは、本当に幸い。

 草は枯れ、花はしぼむ。しかし神の言葉はとこしえに立つ、と語るイザヤの言葉も心に響く。

 教会が礼拝を守っているようであるけれども、事実は逆で、神を礼拝させていただけることで、教会が守られている。集う一人一人の魂が守られている。苦難の嵐や、人の言葉という嵐に流されては、ぼろぼろになっていくことから、守られている。毎週、毎週、主の港に入港し、碇をおろす。それが日曜日の礼拝。


 神を礼拝することは決して自明なことではく、聖なる聖なる神のまえに、罪ある人が、軽々しく立とうものなら滅びるしかないものを、イエスキリストの十字架の贖いゆえに礼拝させていただける恵み。
 イエスキリストのゆえに、聖なる神を「天の父よ」と礼拝させていただけることは、本当に幸いなこと。