あるメールマガジンから
久しぶりに歯医者さんにやってきたあなた。
先生が見ると、歯が透けて中が黒ずんでいます。虫歯です。
治療がはじまりました。
キュイーンという音とともに、悪いところがどんどん削られていきます。
やがてドリルは神経に近づき、突き刺すような痛みがあなたを襲います。
「あぁ、甘いものをあんなに摂りすぎなければ良かった。」
「ちゃんと寝る前に毎日歯ブラシするんだった。」
続く痛みにまぶたをゆがませながら、あなたはこれまでの行いを一生けんめい後悔しています。
ところで、イエス・キリストは十字架に磔にされて死なれましたが、実は磔にされるだけの罪状はありませんでした。
当時その地を治めていた総督がこう言っています。
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「私は、あの人には罪を認めません。」(ヨハネ18:38)
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イエスは、死に値する罪を犯さなかったのです。
無実なのに、罵られ、つばを吐きかけられ、むち打たれ、十字架につけられて息を引き取られました。
肉体的にも、精神的にも極限まで追い詰められての死です。
イエスの死は何のためだったのでしょうか。
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キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 (1ペテロ3:18)
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罪のないイエスが死んだのは、私たちを神のそばに導くためでした。
そのイエスは、私たちを友と呼んでくれました。
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わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。 (ヨハネ15:15)
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友を神のもとに導くために。
その間にあった大きな隔たりを埋めて、友が神と和解できるように。
イエスは苦しまれ、そのいのちを差し出しました。
診察台で、いま歯をドリルで削られているあなたも、同様に苦しみの中にいます。
とにかく痛い。
一刻も早く治療が終わることを願うばかりです。
でもそれは、自分のための苦しみです。
自分のための治療です。
イエスの苦しみは、自分のためにではなく、その友のための苦しみでした。
それは、私たちを神のもとに導くためです。
それを通して、だれよりも大きな愛を示してくれたのです。
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人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 (ヨハネ15:13)
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