あるブログから

 多くの人が誤解しますが、信仰は外国語の学びのようなものとは異なります。語学の場合は、一時期、必死に努力すれば使えるようになり、一度身についたことは、そう簡単には忘れません。そこからどんどん新しい世界が広がってゆきます。



それに対して、妙なたとえで恐縮ですが、信仰は深蒸し茶のようなものに似た面があるのかもしれません。休暇中にテレビを見て妙に納得したのですが、深蒸し茶には、コレステロールを下げ、癌を予防し、身体をスリムにする効果があるとのことです。ただ、これは一日に何杯も飲み続ける必要があり、その効果もわからないまま継続する必要があります。しかも、それをやめたとたん、すぐに効果が消えてゆくということです。



  私たちは日々、神の恵みによって養われる必要があります。ただ、その際、自分の知性で聖書の内容を把握するという学び方は、自分の力で神を把握するという方向に流れ、あまり良い結果を生まない場合があります。実際、昔から、「下手な神学校で下手に学ぶと、純粋な信仰を失うことがある・・・」などと言われます。


  人間的な努力で神を把握しようとする人に対しては、しばしば、「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(イザヤ45:15)というみことばが語られる必要があります。



信仰は、神の恵みにを徹底的な受身で味わうことから養われるものです。それは、たとえば、聖書のみことばの朗読を、ただ静かに聴くこと、また、神の創造のみわざの中に身をおいてその豊かさをただ味わうこと、また、神が自分の人生の中に一方的に現してくださった数々の恵みのみわざを思い起こすことです。