今日は早朝、酒田キリスト教会で、合同の朝のお祈り会(朝祷会)に出て、その後牧師会。午後は、仙台の方と盛岡の方と、インターネットのスカイプで会議。
顔を合わせて話し合う機会も大切ですが、アイデアを分かち合ったり、事務連絡程度のことなら、同時通話で十分ですな。
こういう便利なものは、頼りきらない程度に、うまく使っていきましょう。
さて最近妻は、10月になくなった父の夢を、見ることがあるようです。夢の中で父はよみがえるらしい。
また、私のパソコンのメールのソフトには、まだ義父のメールアドレスが登録されています。その名前をみると、つい、そこに送信したら返事が返ってくるかもなぁ、という気になることがあります。
妻にそのことを話したら、「わたしも、なくなった○○さんや、○○さんのアドレスを消せないの」といいます。そういうものなのでしょう。
たとえ存在がそこにいないとしても、その人との関係はなくなったわけではない。目に見えなくても、その人との関係が、わたしたちを生かし続けるということがあるものです。
さて、今日、車の中でラジオの山形放送を聞いていたら、人生相談の番組のなかで、夫に存在を無視されつづけ苦しむ妻が、男性と浮気をしている話しをしていました。
その相談の最後にパーソナリティーの人がこう言いました。
「人は一人で生きるよりも、別れたい相手と一つ屋根の下でいきるほうがもっと寂しいもの」 妙に心に残った一言でした。
たとえ存在がそこにあっても、そばにいても、もはやそこに関係がなければ、それは死ぬより寂しいことかもしれません。
しかし、存在がそこになくても、あるいは見えなくても、関係はなくならないということもある。その関係によって活かされるということもある。
神も目に見えませんし、その存在を触って感じることもできません。
しかし、たとえ目に見えなくても、触ることができなくても、聖書の言葉を通して、神はわたしたちと関わりを持ちたい。あなたと関係を築きたい。あなたを愛している。この言葉を信じてほしいと、語っている。その神さまの側の歩み寄り、関係を築こうとされる神の言葉は、クリスマスの日に、イエスとして結実したのでした。
ですから、このイエスさまの言葉を聞き、応答することで、わたしたちは神との関係に入ることができる。
神は目に見えなくてもいい。聖書を通して、神の言葉、イエスキリストの言葉を聞くことによって、天の父なる神との関係に生きることができる。それが信仰。目に見えなくても、あなたを愛していると、キリストを通して語ってくださっている神の言葉を受け止める。この方との関係に生きる。このお方が、いつも共にいてくださる関係の中に生きる。
なので、目に見える現象の中に神を探すことはない。不思議な奇跡とか、超常現象とか、癒しとか、そういう目に見えることの中に、神を見つけなくていい。なぜなら、それは、神の存在を確認しようという営みだから。そうやって確認したところで、そもそもその神との関係がなければ、なんの意味もないことだから。
しかし、たとえ神は見えなくても、奇跡や不思議なことという目に見える証拠がなくても、聖書を通して語り続けている神の言葉がある。わたしたちを関係を持とうと語りかけてくる神のみ言葉がある。その言葉に聞き、感謝と祈りで応える、神との関係に生きることができる。
それが、わたしたちを、本当に活かす命。
神との関係こそ、生かされ、生きていく人生の喜び。