息子との朝のひととき

 朝、夫婦で祈った後、美香は妻と朝食の準備、わたしは嗣音と庭の掃除。この朝の時間は恵みの時。

「嗣音、ニンジンに水をやって」

「はい」

「パパ、モンシロチョウが花の蜜をすってるよ」

「ほんとうだ。」


「パパ、掃除終わったよ」

「ありがとう。朝ごはんにしよう」

 嗣音も、この短いひと時を、喜んでいる様子。息子と、そんなたわいのない会話を交わすことができる日々。これは主の恵みです。


 最近、長いこと消息がわからなかった父と、連絡を取り合うことができるようになりました。

 そして父から手紙が来るたびに、なにかドキドキしながら封を開けている自分に気がつかされます。他人事のようですが、きっと自分は嬉しいと感じているのでしょう。そしてそのように、父からの手紙を喜ぶことのできる心になっていること自体、主の恵みなのです。感謝です。


 そういえば、「聖書は、天の父である神さまからのラブレターなのですよ」と言った人がいます。厳しく見える言葉もすべてひっくるめて、父なる神の愛の言葉。ラブレター。

 今、そのラブレターを、恐れるのでも、無関心な心でもなく、「ドキドキ」しながら読み、その愛の御言葉によって喜びをいただける心が与えられていること。そのこと自体、まさに主の恵みなのだと、気づかされています。


「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。・・・」新約聖書1コリント15:10