信仰と自由

 最近よく思うのは、「自由」ということ。信仰と自由の問題。信仰がなにか不自由な状態を生み出しているときは、どこかが間違っているのかもしれません。



2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

新約聖書 コロサイの信徒への手紙2章20節〜)


「主の霊のおられるところに自由があります。」新約聖書 2コリントの信徒への手紙 3章17節)



「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章1節)


「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節)

「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」新約聖書 2ペテロの手紙 2章 16節)


8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ヨハネによる福音書8章31節〜)