祈りの力

 少し前から、週に一〜二度、ある方と電話でお話ししています。鬱と戦っているその方は、一月ほどまえ、死にたいと言っていた時期もありました。しかし、今、少しずつ良い方に一歩一歩歩んでいます。


 その方がよい方向に向い始める大きな転機は、祈りを始めたときからです。その祈りとは、飾られた言葉を並べ立てる祈りではありません。そうではなく、自分自身さえ気が付かずに蓋をしていた、自分の心の奥底にある痛み、悲しみを、イエスさまに語り初める、そんな祈りを始めてからでした。


 しかし、そのような祈りをするに至るには、まず、わたしも、彼の家族も、彼の語る言葉を聴き続けるということに徹しました。なぜなら、人間は、他者に自分のことを聴いてもらうなかで、自分自身の存在の意味を確認し、また、自分一人ではどうしても気が付くことの出来ない、自分自身の奥深い内面に出会うからです。


 ゆえに、聴くことは、その人が、蓋をしていた自分自身に出会うための大きな援助となります。ただ、壁に向ってかたるのではありません。自分で自分に独り言を語るのでもありません。人格ある他者に聴いてもらうとき、人は、自分自身に気づき、癒しへの道を歩み始めます。


 しかし、人間は、限界ある被造物です。どんな人も、他者の全てを理解し、受け止めることはできません。聴く人自身も、なにものかに聴いてもらい、受け止められなければならない限界ある存在です。



 しかし、わたしたちには祈りがあります。



 祈り。それは、限界のない永遠なるお方に語ることです。この自分を完全に理解し、愛し、受け止めて下さるお方に、全てを打ち明けることです。自分でも蓋をしている、自分自身の悲しんでいる心、傷んでいる心。その心の想いを、まっすぐに神に申し上げる。


 なぜ、そんなことが出来るのでしょう。聖書にこうあります。


「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(新約聖書1ペテロの手紙5章7節)


 神が、私たちを気遣っていて下さるゆえに、自分の気がかりなことを、神に聴いていただいていいのです。


 祈りとは、決して自分の頭の中だけで行う、観念の遊びではありません。この自分を愛して下さるお方との交わりであり、コミュニケーションです。


 ゆえに、祈りには、大きな癒しの力があるのです。


「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(新約聖書 フィリピの信徒への手紙4章6節〜7節)