人の不合理、神の合理

 今日の朝、いつものように、順に読んでいた聖書の箇所が詩篇126編。


「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」5節6節


 また、新約聖書のローマの信徒の手紙4章のアブラハムの信仰の箇所を読んで、励まされました。


 最近、祈ると涙が流れることも多くなりました。しかし、涙を流すことも必要なのだなとおもい、感謝です。


 今年は暖冬です。しかし、冬は冬らしく寒くあったほうが、春の喜びもひとしおです。
人間の都合からすれば、雪と寒さで、活動が鈍くなるだけな冬など、ない方がいいわけですが、神様は冬をお造りになったわけです。不合理だろうが何だろうが、冬は必要です。


 私は吉野家でバイトしていたとき、無駄を排除するために、考え抜かれた非常に合理的な管理システムに載せられた人間の苦しみを、少し体感しました。人間は、知恵を尽くして合理性を追求しては、人間らしさを失っていきます。


 冬の存在は、人間の目には、不合理。しかし、神の目には合理。また「問題」や「無駄」の存在も、人間の目には不合理、しかし神の目には、合理。なによりも、キリストの十字架の死という不合理が、人間の救いのために必要な、神の合理だったように。


 そう信じれば、流した涙も、悩み苦しみも無駄にはならず、「喜びの歌と共に刈り入れる」ために必要な、神の合理となるでしょう。