祈り

shuichifujii2007-02-04

 今日の礼拝の説教は「祈り」がテーマ。分かち合いのとき、Mさんは「神様にあれこれ願い求めるのは、自分中心のような気がする」というような感想を分かち合ってくださいました。うーんなるほどね、と思いつつ、こんなコメント。


「祈りは天の父なる神様とのコミュニケーションなんですね。人間の親でも、子どもがいろいろ求めてきたときに、子どもにとって必要なものだけあたえることで、子どもが健全に成長していくように、祈りも、祈るうちに成長していくものなんですね。かえって、親にしてみれば自分の子どもが話しかけてこないことの方が悲しいことであって、天の父なる神様も、私たちが良い子ぶって、祈ろうとしないことの方が、悲しいことだと思うのですね。」


 そんなことをコメントしておきながら、ふと自分自身のことを振り返りました。かく言う自分は、肉親の父親とのコミュニケーションが希薄だったと思います。甘えた記憶もほとんどありません。いつも父に対して気を使い、良い子を演出していた気がします。父の威嚇的な態度がそうさせた面もあるでしょう。しかし、そんなわたしも今、自分が父親になってみて、同じようなことを子どもにしているときがあるように思います。みんな欠けだらけの不完全な父親なのです。


 そんな私にとって、「天の父よ」と祈ることが出来ることは、この上ない幸いです。完全に信頼できる父を知り、その父の愛に信頼している子どもには、良い子を演出する必要はありません。父がプレゼントをくれることを期待して父と語るのではなく、父に愛されているから、父に甘え、父と語り、父とともに時を過ごしたいと願う。そんな素敵な父と子の愛の関係の現れ。それが祈り。


 天の父に祈ることが出来ることは、本当に素敵なことなのです。


「神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださいます」新約聖書 ヤコブの手紙4章8節