手続きと礼拝

 今日は、妻とミーティング。一つは、主日礼拝のプログラムの流れについて、二つ目はホテルでの集会について、その他もろもろの重要案件(笑)


 さて、私たちの主日礼拝は、数名で机をかこむ集会。そのような中に、初めて教会を訪ねる方がきた場合、その方は、きっと、目の前の人の顔色をみては、自分は間違ったことをしていないか、緊張して疲れてしまうのではないかと思います。もし私が、他宗教の礼拝、しかも数名の集会に参加したとしたら、きっと、目の前の人や、隣の人の顔色を見ては、自分は失礼な振る舞いをしていないか、気になってしかたがないように。


 だったら、一つ一つ丁寧に説明して差し上げたらいいじゃないですか。となりますよね。そして、それを実践してみるわけです。

「えーと、交読文と書いてあるところはですね、讃美歌の後ろの方のページを開いて頂くと、書いてあるんですけれど・・・、ありましたかぁ?、あ!、うすい字のところは、読まないんですよ。そこは司会の人がよみますから、濃い字の所だけ読んでいただけますか。そして次に、「主の祈り」とプログラムに書いてあるところはですね、他の人は覚えているんですけれども・・、讃美歌の後ろの方に書いてありますから、そこを開けて頂いて・・・、いいんですよあせらなくて、どうぞゆっくりあけてくださって、みんな、あなたが開けるのを、まっていますから・・・、ああ、そうじゃなくて、もっと後ろのページ・・、そうそうそこです。さあ、お待たせしました。みなさん、主の祈りを祈りましょう!!」

「それでは、マタイによる福音書を開けていただけますか。あ、どこだかわからない。えーとですね、新約聖書の○○ページになります。え、ありませんかぁ?、ああ、いま開けているのは、旧約聖書ですねぇ。新約聖書というのはですね、もっと後ろの方からはじまるんですよ。勉強になりましたでしょ!!」

 こうやって、初めての人は、礼拝ではなく、礼拝の「手続き」だけを必死に覚えて帰るはめに・・。


「いや、真理を求め、崇高なる神を礼拝するのだから、その程度の手続きなどくぐり抜けるべきではないか」というお考えもありましょう。でも、私は、神への道を妨げる、よけいなハードルは取り除きたいのです。ここは、開拓なんですから。


 初めての人が、「手続き」に心を奪われることなく、神様の愛の素晴らしさにこそ心奪われる礼拝。ああ、そんな礼拝を献げさせていただきたい。でも、そのためには、まず、自分自身の中にある、形式主義的な思考が、変らなければならないことに気付いています。聖霊のお導きを切に祈るのです。