『粘り強い祈り』

 去年の10月に、教会の月報の巻頭言に書いた自分の文書ですが、もういちど自分自身、受け止めなおそうと思い、ここに打ち直して見ました。



<フォ一サイスは「祈りの精神」という本のなかで、こういいました。「われわれはあまりにも早
く『み心がなりますように』と祈りやすい。しかし、あまりにも簡単に事態を神の意志として甘受
することは、柔弱や怠惰を意味するのである。神の意志に打ち勝つほどに祈ることが神のみ心で
あり、神のより高い意志の実現を目指して、頑強にねぱり強い祈りを俸げることが、さらにみ心に
かなうことなのである。」(P.49)
 現代はお腹がすけぱ、すぐにコンビニやらファーストフードで空腹を満たすことができ、ほしい
ものは、すぐインターネットで注文できる時代です。なにかを求め続け、待ちつづけるという体験
をあまりしなくなりました。そして、ともすると祈りにおいても、「どうせみ心がなるのだ」とす
ぐあきらめ、粘り強<祈りつづけるという体験が失われてはいないでしょうか?
 列王記下20章にこんな出来事があります。病気のヒゼキヤ王のもとに、イザヤがきて「あなた
は死ぬことになっているのだから、遺言をしなさい」と言います。イザヤは預書者です。ゆえに彼
の語ることは間違いなく神の御心です。それではヒゼキヤば『ああそうですか。神の御心では
しかたがない」と言ったでしょうか?。そうではなく、彼ば必死に、助けて下さいと泣いて祈った
のです。そして、その祈りに天の父ば答え、彼の命を15年引き延ばしたのでありました。
 イエスさまはあきらめずに祈リ続けよと弟子たちに教えます。そしてご自身もゲッセマネの園
で、父のみ心を知りながらも、最後までねぼり強く、「できれぱこの盃を取リのけてほしい」と祈
られたのでした。その粘り強くも激しい祈りの一番最後に、主は「み心がなりますように』と祈ら
れたのです。この言葉は祈りの最初にくるぺき言棄ではありません。ねぱリ強く祈り続ける祈り
の一番最後に来るべき言葉なのです。>