会誌を売りに来たご婦人

shuichifujii2006-10-17

今日は朝方、一人の品の良いご婦人が教会に来られた。ある倫理を実践する会の会誌を買ってほしいということである。「文部科学省も認可している」。「社団法人であって宗教ではない」「倫理をお伝えしているだけ」と強調されるので、かえって不自然だと思いながらも、「うちは教会ですから間にあっています」とは言わずに、しばらくお話を伺う。
 老人介護のこと、子育てのこと、身近な問題について良いことを語ってくださる。わたしも、「そうですねー、その通りですねー」「いやー、聖書もそう教えているんですよ」などと一通り聴かせていただいて、最後に、「でも、人間、良いことを教えられても、そうは生きられないものですよね」「・・・」、一瞬彼女の表情が困ったような顔になった。「だから、神様の救いが必要なんですよね。それが信仰なんですよ」と申し上げる。
 その方は、子どもさんが二十数年前、双葉幼稚園に行っておられたそうだ。「クリスマスにはたしか劇をするんですよね」「ええ、イエスさまの降誕劇ですね」 そんな話をしながらお別れに、「こうやって家々を回っていても、買ってくれる人はなかなかいないでしょ、大変ですねぇ」そういって、名刺を渡しつつ、300円の会誌を二部買って差し上げた。
 インターネットで調べると、その団体は、1946年5月3日に創立した社団法人とあり、一般的には、朝起会(あさおきかい)の名称で知られている。この伝道所の近くの集会場でも朝5時から6時まで毎朝集会をしている。倫理を学び、体験を語るそうだ。

 さて、絶対者がいなければ、全ては相対の世界。「あなたがそうしたければそうすればいい。わたしはわたし」であって、絶対者なる神を源泉としなければ、「人間かくあるべし」などといい切れる倫理など存在し得ないのである。「これは宗教ではありません、倫理です」とは詭弁ではないだろうか。

 あるインターネットのサイトには、団体について宗教ではないがカルトではないかという記述があった。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=1382398

 なにが宗教でなにがカルトなのかを定義するのも難しいところがあるし、この記述を鵜呑みにすることも出来ないのだけれども、いずれにしろ、意図的に本当の姿を隠しているとするなら、何処かに問題があるということはいえるのかもしれない。「宗教」であるなら堂々とその信じているところを伝えればいいはず。人間は本質的に宗教を必要とするのだから。
 キリスト教も、本当に伝えるべきイエス・キリストのことを隠して、「子育ての問題」とか「教育の問題」とか「カウンセリング」とか、そういう「よい生き方」だけを宣べ伝えているとしたら、一般の人から見たら、この団体と言っていることもやっていることも同じと思われて、それも問題か。

 「良いこと」についてはもう十分かっている。しかし、「わかっちゃいるけどやめられない」悪に傾いてしまうこの心をどうするのか。その人間の根本的な問題。「原罪。その原罪からの救い。イエスキリストの贖罪の死。十字架。そして復活、それを信じる信仰をとおして心のこそから湧き上がってくる喜びと、愛に押し出されて生きる「新しい命」。それは朝早く起きて頑張ればいいという「自力」「律法主義」ではなく、聖霊を頂いて、超自然的に、力と愛と喜びに押し出されて、神様の定められた「倫理」「律法に示された愛」に生きる自由を頂く、その「福音」の喜びこそ、伝えていきたいのです。