「もう泣かなくてよい」(2015年9月13日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書7章11節〜17節

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


過ごしやすい季節になりました。9月ですね。
今月は、先ほどKさんがアピールしてくださいました、「教会学校月間」ですね。

初めて教会に来られた方は、「日曜日なのに、また「学校」ですか」と思われるでしょうか?

伝統的に、「学校」という言い方をしていますけれども、実際は、「学校」ではないですよね。小学生のクラスはすこし違うかもしれませんけど、ユースから成人のクラスには、「先生」も「生徒」もいないわけですから。

先生は、私たち1人1人のなかにおられる、復活のイエスさまなのだ。聖霊なのだと信じて、聖書を真ん中において、御言葉を聞いた1人1人が、自由に思いを分かち合う場なんですね。それを、なんといったらいいのか。「学校」よりも素敵ないい方があったら、いいなと思いますけれども、こういうことをやっているのは、キリスト教の中でも、そう多くはないんじゃないですか。まさに、バプテスト教会の宝物です。


わたしたちは、それぞれ全く違った所から、まったく違う立場、年齢の人々が集まってきているんです。そんなわたしたちが、お互いに共感し、わかりあい、人と人として出会えるのは、お互いが大切にしている同じものを、真ん中におくしかないじゃないですか。その真ん中におくことができるのは、仕事でも、趣味でも、思想でもなくて、わたしたちにとって、「聖書」が示している、神の愛。主イエスの御言葉、使徒のたちの教えを、真ん中において、分かちあうとき、どのような人とでも、一人の人として、お互いの心の喜びを、悩みを、ある時は、悲しみでさえ、お互いに心を開いて、分かちあい、一緒にイエス様の言葉を聞こうとする仲間。一人では担いきれない重荷を、一緒に担おうとする、仲間。

悲しみのとき、弱っているとき、一人ではどうにもならないとき、イエス様のところに、共に歩んでくれる、仲間。

教会学校の交わり。


 さて、今日の聖書の個所は、息子を失い悲しみに暮れる母親に出会う、イエスさまの物語です。

 死は、究極の悲しみの出来事。人の力の限界が、決定的にあらわになる、悲しみの極みの出来事。

 この物語が起こった、「ナイン」という町は、イエス様の故郷、ナザレから、9キロほど南の町。

当時のパレスチナの町は、どの町も城壁に囲まれ、町に入るには、門を通ったのです。

旅の途中のイエスさま、弟子たち、ついてきた大勢の群衆は、ちょうどナインの町の門をくぐって、町の中に入ろうとしていたのです。

そこで、ちょうど反対側から、門の外に出ようとする、葬式の行列と出会った。そんな場面を想像してください。

 当時は、「死体に触れると汚れる」と考えられていたのです。ですから墓地は、町の外にあり、死んだ人は、町の外に運ばれていったのです。

 日本の地方の、特に農村部では、その部落のお墓は、田んぼの中だったり、居住地のすぐそばに、あったりするのですね。

 それは、亡くなった方を、祖先を、そばに感じていたいという気持ちの表れ、つながりを感じていたいという、願いの現れにも思えます。

 しかし、ユダヤでは、死体は汚れていると見なされ、町の外に葬らなければならなかった。愛する人を、側に置いておくことさえできず、町の外に運び出さなければならない、離別の悲しみは、どれほどだったのかと、思います。

 今日の物語に登場する、母親は「やもめ」でした。そおして、彼女が失った息子は、「独り息子」でした。もちろん、何人子どもがいても、子が先に旅立ってしまうことほど、親にとって深い悲しみはありません。

 わたしたちの教会の仲間にあっても、その深い、深い悲しみを、味わわなければならなかった方が、何人もおられることを、知っています。

 どうしてこんな悲しい別れをしなければならないのかと、言葉も出ない悲しみを知っておられる方が、わたしたちの仲間にもおられることを知っています。

 今日は午後に敬老のお祝いです。今日まで、長い人生を歩んでこられた人生の先輩方は、きっと沢山の悲しみ泣くしかない現場と、遭遇してこられたことでしょう。

 深い悲しみに泣くしかない時。人は、人に、なにをしてあげることができるのでしょう?

 この悲しみ泣いている母の周りに、町の人が大勢、付き添っていたと、書いてあります。

 当時のユダヤには、ある意味葬式の演出のために、泣き女とか泣き男という人々がいたと聞きます。

しかし、この悲しみの場に、そのような人は、全く必要ないのです。そこには、すでに、慰めようのない悲しみが、あったのだから。

 息子の眠る棺のそばで、泣くばかりの母。
その周りに言葉もなく、付き添う人々。

もはや、なにも語ることができない現場

人間は、もはや「言葉を失う」しかない、という時を、わたしたちも、体験したことがあるでしょう。

あの、東日本大震災のとき、人は、語るべき言葉を失いました。ある牧師は、あの後、しばらく講壇からなにを語ればよいのかわからなくなったといいました。

突然愛する家族を失った人に、また、不治の病の宣告を受けた人に、

大切なものを失い、失望の涙に暮れる人に、人は、いったい、なにをしてあげることができるのでしょう。

いや、いつの日か、その失望の涙を、わたしたち自身が泣がすとき、わたしたちに、いったいだれが、心に届く、慰めの言葉を、希望の言葉を、語りかけてくれるのでしょう。

この息子を失い泣いてる母の姿は、わたしたちの姿でもあるのです。もはや、どんな人の言葉も、心に届かない。人には、どうにもしてあげられない、ただ寄り添うしかできない、そんな場に、投げ込まれてしまう時がある。

しかし、この物語は、ここで終わらなかったのです。

 悲しみに泣き、門の外へと向かって歩く、この葬列にむかって、

その反対側から、つまり、門の外側から、主イエスが入ってこられたから。

人間の限界に涙するしかない、門の内側に向かって、門の外側から、主イエスはやってきて、声をかけてくださった。

人間の限界ゆえに、「言葉を失う」しかない、門の内側からではなく、門の外側から

まさに、主イエスでなければ、決して発することの出来ない、人は、発することのできない、言葉を、一言、発せられた。

主イエスは彼女に宣言します。

「もう泣かなくともよい」

外側からやってきた、主イエスの宣言が、彼女の心に、わたしたちの心に響く瞬間です。

「もう泣かなくともよい」

この宣言は、この世界の限界、不完全性ゆえに悲しむ、すべての人に向けられた、

門の外側から響く、神の子、主イエスの言葉、宣言。

「もう泣かなくともよい」

「もう泣かなくともよい」

 なぜ、主イエスは、「もう泣かなくてもよい」と言うことができるのでしょうか?

 このあと、すぐにこの息子を生き返らせるおつもりだったからでしょうか?

13節にこうあります。
「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われた。

息子を生き返らせてあげるから、「もう泣かなくてもよい」といわれたのではありません。

「憐れに思われた」からであります。

「憐れに思われた」この元のギリシャ語は、イエスさまにだけつかわれる言葉。「はらわたが痛む」という意味の言葉です。

あなたのその悲しみと、まさに一つとなってくださる、イエスさま憐れみ。

エス様ご自身の「はらわたが痛む」程に。

それは、上から見下ろすようにして、「おかわいそうに」という同情までしかできない、人間同士の限界ある憐れみとはちがって、

まさに、おなかを痛めて母が子を産むようにして、

あなたを愛し、この世界に生み出してくださった天の親が、

愛する子が悲しむなく姿に、いたたまれず「はらわたが痛む」ほど、同じ悲しみを、痛んでくださっている、憐れみ。

主イエスは、その憐れみにつき動かされて、「もう泣かなくてもよい」といわれるのです。

 それは、すぐ生き返らせてあげるから、安心しなさいという、「はらわたの痛むことのない」安易な救いの言葉ではないのです。

もし、そういう救いですむならば、イエス様は十字架につくことはなかったのだから。

悲しみの原因を、ただ取り除くのが、救いならば、ご利益宗教の救いと、同じになってしまいます。

悲しみ泣いたその時間も、人生の経験も、ただ無かった方がいいだけの、意味のない出来事になってしまうのですから。

人間には、悲しみの意味を、すべて知ることはできません。

こんな話を聞きました。

第二次世界大戦の終わる年、オランダに住んでいた13歳の少年の話です。
お父さんが育てるようにと、少年に子山羊をくれました。戦争末期、多くの人が飢えていた時でした。
少年は、その子山羊をとてもかわいがりました。名前はワルターと言いました。
散歩したり、ふざけてからかったり、抱いて運んだり、
毎朝、目が覚めるとすぐに餌をやり、学校から帰るとすぐに小屋を掃除し、いろいろ話しかけました。
子やぎのワルターと少年は、無二の親友でした。
ところがある朝早く、小屋に行ってみると、そこは空っぽでした。盗まれたのです。
少年は、激しく泣きました。悲しみのあまり、泣き叫びました。
愛するものを失った悲しみを、父も母も、どう慰めたらよいのか、分かりませんでした。
少年が最初に学んだ、愛と、喪失の、体験でした。

戦争が終わり、何年もたって、やがて食物に不自由しなくなった頃、お父さんは打ち明けてくれました。
彼の家で働いていた庭師が、ワルターを盗んで、飢えていた、彼の家族に食べさせたことを。
お父さんは、その庭師がしたことを、すべて知っていました。
そして、少年が深く深く悲しむ姿に、心痛みながらも、その庭師を問いただすことをしませんでした。

大人になったその少年は思いました。
子やぎのワルター、そして父から、思いやる愛とは、何なのかをおそわったのだと。


人は、その時、悲しみの意味を、知ることはできません。

しかし、人の思いを遥かに超えた、天の父の愛の御心のなかで、

わたしたちの、その悲しみに寄り添うようにと、主イエスをこの世界につかわしてくださって、

今はわからない、その悲しみと「一つになって」悲しみ、「はらわたが痛む」憐れみで、見つめてくださっている方がいる。

わたしたちの、今はわからない、その悲しみのすべてをひきうけるようにして、十字架の上で主は「わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、「どうしてですか」と悲しみの叫びを、絶望の叫びを、叫んでくださった主イエス

この、主イエスのほかに、わたしたちの、今はわからない悲しみと、まったく一つとなってくださる方は、
この世界に、ただの一人も、いないのです。

ゆえに、主イエスだけが、「もう、泣かなくていい」と、わたしたちに宣言できる。いや、憐れみに押し出されて、「もうなかなくてもいい」といわずにはおられない、神の愛に触れることこそが、わたしたちの「救い」なのだから。

「もう、泣かなくていい」

わたしたちは、この主イエスの憐れみの言葉を、聞いた仲間です
この主イエスが真ん中で、お互いをつないでくださる、仲間です
互いの悲しみの深さを、その訳を、わかりあえないとしても、

すべてを知っていてくださる主イエスのゆえに、
互いに、心を開いて、わかりあおうと願う仲間です。

今は、その悲しみの意味は分からなくても、主イエスの言葉を聞いて、信じて、励ましあう、仲間です。

主イエスがしてくださったように、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣」こうと願う、仲間です

教会学校。それは、主イエスを真ん中にした、大切な、仲間の交わりなのです。


さて、イエスさまは、この後、若者を生き返らせてくださいました。

それは、肉体の弱さを感じて生きていかなければならない、わたしたちにとって、本当に慰めの出来事です。

わたしたちを愛する主は、祈りに答えて、「病を癒し」てくださることがあるでしょう。

「奇跡的な守り」を、体験させてくださることがあるでしょう。きっと、みなさんも、そういう証があるでしょう。

それはすべて、今も、祈りに応えてくださり、主イエスの生きておられることの、証であり、体験です。

それは実に幸いなことです。それは「病が癒される」という体験や、それ以上の「死んだ人が蘇生する」という出来事以上に、

「神はその民を心にかけてくださった」のだと、当時の人々が神を賛美したように、

神さまは、わたしたちを、ちゃんと心に欠けてくださっている。覚えてくださっている。
聖書の約束は、神の愛は、本当なのだ。永遠の命は、本当なのだと、励ましてくださる、神の愛の「しるし」であるからです。

もちろん、このよみがえらされた若者は、またやがて、死んでいくでしょう。
「病の癒し」、「奇跡」は、本当の救いではないからです。それは、「しるし」なのです。神の愛の「しるし」です。

「しるし」はやがて過ぎ去ります。しかし、決して過ぎ去ることのない、癒しを、奇跡を、わたしたちは知っているのです。

もっとも偉大な奇跡を、主イエスの復活を、わたしたちは、信じてあつまる、仲間です。

主イエスの復活。そしてわたしたちの復活。
これこそ、過ぎ去ることのない、わたしたちの希望。

復活し、今も生きておられる主イエスは、今、ここで、わたしたちに

「もう泣かなくてもいい」と語っています。それを聴きとるわたしたちは、幸いです。
いつの日か、愛する人たちと、再会する日がやってくる。

やがて、わたしたちの目から、すべての涙がぬぐわれる日がやってくる

主イエスは言われます。
「もう泣かなくてもいい」と


祈りましょう。