原理主義的信仰って、結局、何教、何宗を問わず
自分がその原理なり教えなり、理念を行うことによって救われようとするので、
常に、不安や恐れと背中合わせになりやすい。
その不安や恐れが、なおいっそう、その原理や教えを行うことへと向かわせていく。
でも本来、自分の状態、周りの現状がどうであれ、変わらぬ平安と満ち足りた心を体験するところに宗教の本義があるはず。
満ち足りてさえいるなら、人のものを奪ったり、暴力を行う必要もない。
暴力的に奪おうとするのは、欠乏していて、満ち足りていない証拠。
今の自分ではだめだと、イライラし、怒っている。
神様は、あなたを愛しているのに。
今、すでに。
キリストにおいて、愛されているし、救われているのに。
それを、まっすぐ受け入れたなら、
変わらぬ平安と満ち足りた心を、
知ることができるのに。