宗教あれこれあるけれど


 世の中にはいろいろな「信仰」があって、簡単に「宗教」としてひとくくりにできないものがあります。「何を拝んでもいいじゃない。信仰さえあれば」というわけにはいきません。なぜなら、世の中には、オウムのように、この世界を破壊してしまえ、というカルト宗教さえあるわけですから。



 多いのは、ご利益追及タイプの「宗教」でしょう。お題目を唱えると、病気が癒されるとかなんとか。また、祖先の呪いを払うとか、前世がどうのとか、スピリチャルなんとかとか、最近は横文字で、洗練されているようですけれども、やっていることは、昔からの霊媒師とかイタコだったりする。ちょっとこれらに精神性を望むことは難しい、原始的な「宗教」。



 「原始的」に対して、「進歩的」ともいえるような「宗教」もあります。たとえば道徳的に高い目標を掲げて、修行や自制を通して、高品位の人生を歩むように説きます。経典や創始者の言葉は感動的です。ところが、その教えに従おうといくら努力しても、理想には届きません。人間には醜い心がだれにもあるからです。そこで、自分を偽り、義人らしく振舞ったりして偽善的な信仰となります。そして、心の深いところでは相変わらず、平安はないのです。


 また、「考え方を変えてみよう」というタイプの「宗教」もあります。「積極的思考」とか「セルフイメージを変える」とか、「成功のための○○」とか、心理学的な言葉や洗練された表現が使われていても、要するに「考え方を変えてみる」というやり方で、御利益を追求するタイプの「宗教」と分類することができます。ついでに言うと、ご利益追求とは、当然「自分の」利益を追求するので、必然的にこういう「信仰」は、人をますます自己中心的、エゴイズムに導きがちです。



 もっとかるいタッチの「宗教」があります。たとえば、人生を上手に渡って行く方とか、コツを教えたりします。家庭や近所付き合い、会社等での人間関係に成功する方法、自分自身の心がけを変えるテクニックであったり、具体的な実践のマニュアルであったりします。まあこれは「宗教」と言うほどのものではなく、「生き方の講習会」であって、ちょっとした目の前の問題の解決にはなっても、もっと本質的な人間の苦悩、たとえば、自分自身の中にあるエゴイズムについては、無関心です。



 多くの宗教は、人間のエゴイズム。自己中心の罪に触れないか、忘れさせようとします。良い教えさえ信じたら、エゴイズムにまつわる問題がなくなるかのように説きます。しかし、現実の自分の姿、また、家族や社会を正直にみつめるなら、この人間のエゴイズムというものによって、愛は壊され、互いに信じきれず、最後まで愛し通せない苦しみに満ち溢れているのです。この問題を無視していて、本当の「救い」などありません。



 この人間のエゴイズムの問題。つまり罪に真正面から向き合うのが聖書の信仰です。
 すべてを造った創造主なる神から離れて、罪に落ちた人間。神を中心とせず、自分自身が中心なので、神が定めた善を知っていながら、それを行えない、行いたくない罪の性質に縛られる。そんな自己中心を、自己の力でどうにもできるわけもない。


 この罪を、エゴイズムをどうするか?


 聖書は、その罪の解決として、父なる神が、御子イエスを、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられ、罪と死に勝利し、罪の代価を、キリストの死をもって支払ってくださったというのです。このイエスさまに信頼するなら、この方はわたしたちの内に来てくださり、罪から解放してくださり、永遠の生命を与えてくださる。



 イエスさまだけが「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。おしゃかさまでさえも、「私は法ではない、法を悟ったものである」としかいえませんでした。このイエスさまとわたしたちの関係こそが、鍵。


 イエスさまを信じるとは、イエスさまの教えを実行して善い人、清い人になることではないのです。イエスさまを私の心に迎え入れて、わたしの中で、聖いイエスさまに生きて頂くことなのです。

 もし、自分の罪に悩んでおられるなら、このように祈ってみませんか。

「イエスさま、私には罪があります。わたしは変わりたいのです。どうぞ、私の内に入ってきてください。私を赦し、私の中にお住まいください。そして、私を支配して下さい。」


 イエスさまは、真実なお方です。祈りに答えて、わたしたちの内に入ってきてくださり、いつまでも共にいてくださるはずです。それは聖書の約束だからです。

 もっとも、そのことが、すぐにわかる人もいれば、ゆっくりと信仰の芽生えが来る人もあるようです。わたしは、徐々にわかってきたタイプですけれども、いずれにしろ、イエスさまが、このわたしの罪を赦し、永遠に共にいてくださる、この永続的な喜びに勝るものは他にないことを、わたしは確信しているのです。



「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネによる福音書14章23節)


「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」(コロサイの信徒への手紙1章27節〜)



「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイの信徒への手紙2章9節〜)