体を運ぶこと

 今日は一日、しとしとと雨。

 Iさんを訪問。いろいろとお話を伺う。今、ちょっと大変なことがあって、伺えないけれども、そのうち教会に伺いたいといわれる。少しずつ心を開いて語ってくださり、感謝。主の平安と導きを祈ります。


 夕方、仙台からIさんご夫妻がこられました。夏の大会のことをお話したり、いろいろとゆっくり語り合うことができてうれしかったです。先日の仙台でのMさんといい、このところ、個人的にゆっくりと話し合うときが与えられて、とても感謝です。


 キッチンはっとりという私たちのお気に入りの洋食屋にご案内して、一緒に夕食。楽しかったです。


 その後、同じく仙台からI先生ご家族が来て下さって、明日のチラシ配りや集会の打ち合わせ。I先生はギターの名手ですが、私のギターをみて、えらく感動され、ギターの弦を張り替えていってくださいました。ありがとうございました。明日も、どうぞよろしくお願いいたします。


 ブログを書いていながらいうのもなんですが、ブログなどでは人と人との本当の出会いは、難しいものだと思いました。バーチャルなメディアはみんなそうですが、同じ空間を共有することができません。


 今、スカイプといって、無料のテレビ電話があって、実家とテレビ電話をすることがありますけれども、顔も見れるし、声も聞けて、コミュニケーションのための情報としては、もう十分過ぎるのです。しかし、では、それさえあれば、もう、会わなくてもいいか、といったら、決してそうはなりません。やはりどうしても、会うことでしか伝わらないこと。同じ空間を共有することでしか伝え合えないことが、あるわけです。



 そういう意味で、テレビとかインターネットとかの、バーチャルな礼拝というものには、私は懐疑的なのです。目で見たり、耳で聞いたりするような情報としては、それで十分かもしれない。しかし、顔と顔を合わせて、二度とはない、同じ時と空間を共有するからこそ、そこに共におられる主を礼拝することになるのではないか、と思うのです。


 そういう意味で、ネットもメールもチャットも携帯もテレビもラジオも、みんなバーチャルなメディアは、限られた情報伝達の道具以上でも以下でもなく、それらは、存在を運んでいるわけではないし、やはり、体を運ぶことに勝ることはない、という、当たり前といえば当たり前のことを、あらためて思ったしだいです。