弱さが必要

 今日は、午後妻の友達のSさんが遊びに来て、夕方まで一緒に過ごしました。自閉症の子どもさんとともに歩んでおられるSさん。幼稚園が同じだったこともあって、妻と知り合いになったのだけれども、幼稚園のお母様方は、なかなかSさんに声をかけられなかったなか、妻から声をかけてもらってSさんは嬉しかったようだった。それで親しくなって、よく遊びにこられるように・・・。ほかのお母さん方は、ハンディのあるお子さんをもつお母さんに、なんと声をかけてよいのかわからなかったのかもしれませんね。


 聖書は、神様を信じる人と人とが、共に生きる共同体を、体の器官にたとえて語っている部分があります。


「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。


耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。


そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。


 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。


目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。


それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。


 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(新約聖書1コリント12章)


 恥ずかしい話ですが、わたしは昔、尿道がつまって尿が出なくなってしまったことがあるのです。膀胱に尿がたまっても出すことができない。自分はどうなってしまうのだろうと不安でいっぱいになりました。処置をして無事開通しましたけれども、人間、小さな尿管一本で、体全体がピンチになるのです。


 人と人との関係もまた、聖書が教えるように、小さき存在をこそ大切にするとき、お互いが活きるのではないでしょうか。