霊感商法

 霊感商法が問題になっています。どうして、こういうものに引っかかってしまうのでしょう?


 聖書が教えている神の愛を知るなら、この類のものに引っかからなくなると思います。



 聖書が教えている神の愛とは、私たちの「行い」や「振る舞い」によって、アップダウンする愛ではなく、神の一方的な恵みであり、愛です。

 もし私たちの「行い」によって、私たちへの神の愛がアップダウンするのなら、もはやそれは「愛」ではなく、「取引」となります。


 親なら、自分の赤ちゃんが笑ったときに愛し、泣いた時には愛さない、というようなことはしないでしょう。「愛」は「取引」などしないのです。


 私たちの周りには、なかなかこのような「愛」は存在しません。恋人や夫婦の間でも、こちらがなにかしたら、相手からその見返りを期待するという「愛」という名の「取引」が多いのではないでしょうか?


 子どもが勉強を頑張った時だけ、親の愛が注がれるというのも、「取引」です。


 相手が自分にとって魅力的な間だけ愛するというのも、愛ではなく、「取引」です。


 その「取引」が、供養とか霊とか、そういう世界で大々的に行われると、霊感商法とか、霊視商法になります。金を出すことで、神の力なり愛を勝ち取ろうとするのです。金を出させるのも問題ですが、金を出すほうも、その宗教観に問題ありといわざるを得ません。


 自分が何かをするから、神様になにかをしてもらうという考え方は、それが「物」や「金」や「おそなえ」であろうと、「修行」「瞑想」「善行」であろうと、つまるところ、神様と「取引」しているのだ、ということに気がつく必要があります。


 キリスト教会も、過去過ちを犯しています。中世の時代、聖書の教えを離れ、「神の一方的な恵み、神の愛」を「神と人との取引」に変えてしまいます。具体的には、罪の償いのための「免罪符」なるものを発行し、大聖堂の建築資金にあてるということをしました。霊感商法と似たり寄ったりです。


 これを批判し、聖書が教えている「神の一方的な恵み、愛」に戻るようにと、宗教改革を行ったのが、マルティン・ルターをはじめとする改革者たちでした。プロテスタント教会の始まりです。


「清く」「正しく」生きることで、神様に愛されようとするのではなく、すでに、この罪深いままで、キリストの十字架ゆえに、神様に愛され赦されているから、「清く」ありたいし「正しく」ありたい、と願う。それがクリスチャンのあり方です。


 愛されるために、何かを行うという、そういう「取引」から解放してくれるもの。それは私たちの罪をあがなうために、神がその独り子キリストを十字架につけてくださったという、神の一方的な恵み、神の愛を信じ、受け取る信仰なのです。