<12>さてもう少し、新約聖書の世界にはいってみましょうか

前回は新約聖書のなかの4つの福音書について、すこし学びましたね。

イエス・キリストのことが書かれていたのが福音書でした。

さて、イエス・キリストは十字架に死に復活し、天に昇られたあとに、

エスさまの弟子たちは、世界に出ていって伝道をしていきます。

当時は巨大なローマ帝国ユダヤ地方も含めて、その一帯を支配していたのですが、

弟子たちはそのローマ帝国中を歩いて伝道したのですね。

ローマの前の時代は、ギリシャがその一帯を支配していたので、ギリシャ語が広く行き渡っていました。

現代なら、英語が話せれば世界の大抵の国で通じるように、その時代はギリシャ語がその一帯の公用語だったわけです。

ギリシャのことをヘラスと言うために、この時代をヘレニズム文化の時代といいます。

ギリシャ神話をご存じの方もおられるでしょうね。ギリシャ神話の神々は、とても人間臭い神々なのです。

そういう意味で、ギリシャ・ローマ時代は、人間中心の文化と言われます。

それに対して、ユダヤ神「主」が中心、律法が中心の文化です。

ユダヤから世界に広まっていった教会のメンバーには、

やがてユダヤ人からクリスチャンになった人々と、ユダヤ人以外の人(異邦人)からクリスチャンになった人が混在するようになるのです。

そうすると、お互いの考え方、意見の違いで、教会のなかに問題が発生するようになったのですね。

新約聖書のなかには、当時の教会に宛てられたパウロの手紙がたくさんありますけれども、その多くは、教会に様々な問題がおこったので、その解決のために書かれたものが多いのです。

その問題の背景にこの、ユダヤ人からクリスチャンになった人々」と「異邦人からクリスチャンになった人々」の間の確執が、あるのですね。

パウロという人は、ユダヤ人からクリスチャンになった人ですけれども、

イエス・キリストによって救われた喜びのゆえに、ユダヤ人だとか、異邦人だとか、そういう一切の隔ての壁をこえて、お互いにイエス・キリストによって、一緒に生きていくのだと、そういう意図で沢山の手紙を書いているわけです。

そういう意味では、この「自分の国ファースト」という、勝手気ままな時代にこそ、必要なメッセージなんじゃないかな、って改めて思うのですよ。


では、また