愛の言葉として

今日の黙想
箴言1章

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。
立ち返って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう」22節〜23節

今でこそ、聖書の御言葉が、神の霊によって導かれた、真理と命の言葉として、心に納められるようになったけれども、

そんな自分も、初めからそうだった訳ではなくて、クリスチャンになる前は、「聖書」なんて、古めかしい本は、自分には無関係の、遠い世界のことが書いてあるのだろう、くらいにか思っていなかった。

いつも、目の前のことで、一喜一憂、浅はかだったな、と思う。

主イエスは、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、必要なものは与えられる」ということを言われた。

この一言だって、ある意味世界観がひっくり返る言葉。

聖書は、「神」がすべての前提なのだ。

そして、神は、この上なくわたしを愛している。天の親。

この一つのことが、腑に落ちれば、聖書の言葉は、心の中で生き生きと躍動を始める。

まさに、

「見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう」

なのだ。