Nさんが、私たちの教会の仲間、神の家族になられました。主が選び、神が出会わせ、神が一つにしてくださる、奇跡を、この朝、礼拝の中で、ともに体験させていただていることを、心から感謝しています。
Nさんを迎える私たちにしてみれば、ある時やってこられたNさんが、二ヶ月ほどたって、今日、私たちの花小金井教会のメンバーになってくださったという、そういう出来事であるわけですけれども、
教会に加わろうとする、その人にとっては、きっと、様々な葛藤があり、迷いがあり、本当にこれでいいのだろうかと、揺れる心があり、そのたびに、ただ、ただ「神さま」と祈りつづけてきた日々があり、そうやって、一つの決断へと導かれていくという、プロセスがあったはずなんんです。
皆さんも、きっとそういう経験があったと思います。何かを選び、決断する。そこに至るまでの祈りの葛藤のような経験を、なさったことがあるのではないですか。今、まさにそうだという人、これからそういう祈りに招かれる人。それぞれでしょう。
さて、今日の御言葉は、冒頭、こう語り始めます。
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って世を明かされた」
イエスさまはここで、どうしても、祈らずにはいられない、という時を迎えているのです。
どうしたらいいのか。
この道か、あの道か、この人かあの人か。
どちらを選ぶべきか。
この後、イエスさまは弟子の中から、使徒を選ぶに当たって、どうしても祈らないわけにはいかなかった。ルカの福音書はそう記します。
あの十字架か、それともほかの道か。その最後の最後の分かれ道の前。あのゲッセマネの園でも、イエスさまは夜を徹して祈られました。
できることなら、この苦い杯を、とりのけてください、とさえ願いながら。しかし、私の思いではなく、天の父の御心がなりますようにと、祈られたイエスさま。
そう、イエスさまにとって祈りとは、自分の願いを、天の父に押しつけることではなく、反対に、天の父の御心と自分の心の思いが、一つとなるための、交わりの時。天の父の御心に生きる勇気と力をいただく、大切な時。
わたしたちにとっても、時に、「祈り」とはそういうものではないでしょうか。
わたし自身。今、ここに立って、御言葉を語る牧師へと、4月から歩みだす決断をするのは、容易ではありませんでしたから。
迷い、悩み、様々なことを考え、自分自身の思いと葛藤し、どうしたらいいのかわからず、ただただ、祈るしかないという時が、必要だったことを、思い起こします。
きっと皆さんも、そんな時を経験しておられるでしょう。
さて、今日の御言葉の箇所は、先週の箇所の続きなのです
。
安息日に、手の萎えた人を癒したことで、イエスさまは、律法学者たちから怒りを買った。
「怒り狂って、イエスをなんとかしようと話し合った」と書いてあります。何とかしようとは、殺そうということです。
ご自分の行動が、ただならぬ殺意を生みだしてしまった。それは、結果としてそうなってしまったというより、当時の社会の中で、安息日に癒しなどをしてしまったら、当然引き起こされるとわかっていた怒りであり、殺意なのです。
イエスさまは当然、ご自分の行動によって、律法学者の人々から、ますますの怒りを買い、これからは命の危険を、考えなければならなくなることは、きっと、わかっていたでしょう。
だからこそ、これから歩む、その困難な道を、イエスさまのそばで、共に歩む「仲間」、「使徒」と呼ばれる人々を、いったい誰にしたらいいのかと、イエスさまに従ってきた弟子たちの中から、選ぶに際して、悩み、呻吟しつつ、朝まで祈られたのではないかと、そのように想像するのです。
誰を選んだらいいのですかと、神の御心を求める長い祈りが、結果的に朝までとなったのではないか。
これからの困難な歩みを、ご自分のまじかで、苦楽を共にしていく仲間たちを選ぶまで、
たしかに、これが神の御心だと、確信をえるのに、朝までかかったのではないか。
朝になってやっと、イエスさまの心が定まり、弟子たちを集めて、12人を選びだされたのではないか。
そのように、今回わたしはここを読みました。
そうであるからこそ、それほどまで祈られ、神の御心と確信なさって選ばれた12人の名前であるからこそ、
あらためて、この使徒の一人一人の名簿をみるとき、神さまの御心は、人の思いを遥かに超えていると、驚過ざるを得ないわけです。
「ペトロと呼ばれたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ」
そのように使徒の名前が続きます。
彼らはみな、漁師出身です。12人のうち約半分の5人が元漁師なのです。
12人のなかには、誰一人として、当時の神学教育を受けた、いわゆる宗教の専門家は1人もいません。
さらに、驚くべきことに、大国ローマの手先として、裏切り者とよばれていた、徴税人出身のマタイがいます。
さらに、その正反対で、支配者ローマを倒せと、過激な独立運動を企てていた、熱心党出身のシモンがいる。
なぜ、政治的には、水を油のような、この二人が、ここに選ばれ、仲間となっているのか、不思議でなりません。
そして極めつけは、やがてご自分を裏切っていく、イスカリオテのユダがいる。
彼を、大切な「使徒」へと選んだのは、ほかでもない、徹夜の祈りの末に、神の御心を確信した、イエスさまなのです。
なんと神の御心は、人には量りがたいことでしょうか。
イエスさまが、人の思いから離れ、祈るために山に登られ、徹夜の祈りの末に決断なさった、大切な、大切な、神の国の働きの、「最重要人事」が、これなのです。
なぜ、この人たちなのか? ほかにいなかったのか。
もう少し、宗教的な知識とか、資質、社会的影響力がある人を、入れてもよかったんじゃないか。
それでなくても、少数精鋭なのだから、もっとほかに、いい人はいなかったのか。
これからますます律法学者たちの、殺意の中、働きを進めていかなければならないというのに、もう少したよりになる仲間を、選ぶことはできなかったのだろうか。
こんなに、政治的にも、思想的にも、バラバラの人たちで、一緒にやっていけるんですか。大丈夫なんですか。
目の前のことしか見えない、限界ある人間は、そう思う。
しかし、人の目にどのように映ろうと、どういう評価をしようと、これが徹夜の祈りの末に、イエスさまが確信し、神の御心と信じて、選ばれた使徒。これこそが、神のなさり方なのです。
わたしたちは、ただただこの神の選びの厳粛さを前にして、謙遜にさせられるしかありません。
そして今も、教会において、イエスさまが1人1人を選び、招き、この時代に、イエスさまと一緒に福音を分かち合う仲間としてくださっている。
ですから、教会の中には、保守的なマタイもいれば、革新的なシモンもいていい。ともにイエスさまに選ばれ、招かれ、仲間となることこそ、本当の平和だから。
主イエスに招かれなければ、決して起こり得なかった、出会いと、交わりを通し、
今も生きて、良いことをしておられる、主イエスの働きを、証していく私たちは、仲間だから。
今日、Nさんの証を、一緒に聞くことで、ああ、主イエスは今も働いておられる、ということを、ともに味わったように、
わたしたちは、イエスさまに選ばれ、招かれて、
「確かに主イエスは、わたしたちと一緒におられます」「わたしたちの間に、おられます」
「今日も、人を癒し、救い、よい働きをしておられます」と、
あの人に、この人に、伝えていく仲間。それが教会。
そして、実際に、主イエスが共にいて、今、まさによい働きをしておられる。人を癒しておられる、そういう教会のイメージを、わたしは、「温泉」とたとえているんです。
聖書には「温泉」という言葉は出てきませんけれども、メタファーですね。隠喩。たとえとして、温泉は、分かりやすい。
今日の、御言葉の後半は、山から下りたイエスさまと弟子たちのところに、あちらこちらから、イエスさまの教えを聞くため、また病気を癒していただくためにきた、と書いてあります。
汚れた霊から、解放されることを願ってやってきた人もいます。人はなにか、自由を奪うものに、縛られてしまうものだから。
そんな人々は、なんとかイエスに触れようとした、と書いてあるのです。
彼らは、触れようとしたのです。触れたなら癒されると思っていたから、信じていたから。
だから、遠くからでも、沢山の人々がやってきた。
この出来事を読むたびに、わたしはどうしても、「温泉」をイメージしてしまうのです。
秋田の玉川温泉をご存知ですか。
秋田の山奥にある温泉。そのお湯につかれば、あのお湯にふれさえすれば、癒されるのではないかと、一縷の望みをかけて、全国から、遠くから、人が集まってくる。
重病の病の体を押して、なお、そこに行きたい。触れたいと願う、その人々の心は、決して、決して他人ごとではないはずです。
わたしたちは、決して今日という日を、当然のごとく生きているわけではないのですから。
自分で自分を存在させたのではないのですから。わたしたちを存在させ、いのちを与えたお方に、触れていなければ、触れ続けていなければ、枯れてしまう。病んでしまう存在なのですから。
「わたしにつながっていなさい」といわれた、イエスさまに、
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられ、枯れる」と言われたイエスさまに、
それはもう、体が癒されるとか癒されないとか、肉体の癒しを超えて、
たとえ肉体は病んだままであろうと、やがて死を迎える時がこようと、
いのちの源に触れたい。イエスに触れたい。その切実なる思いに、目覚めることこそ、救いなのだから。
そういう思いで、イエスさまに触れようとユダヤ全土から集まってきた人々も、
いま、目には見えない主イエスの、その体である「教会」。主イエスが宿り、イエスさまと出会い、イエスさまに触れる、この教会という集まりにおいても、
遠くから近くから、あの場所へ行きたい。あの人々のなかにおられる、お方に触れたいと、
そんな切実な思いをもって、人々がやってくる、そんな教会でありたい。
今日の午後、これからのわたしたちの教会を考えるとき、そんな、まず、イエスに触れる交わり、礼拝という、教会の本質的な部分を、
これを見失ったら、つまり、イエスのいない集まりには、もはやわたしたちは、なれないのだ、ということを、
わたしたちは主イエスに選ばれ、招かれ、イエスを宿す仲間になっているのだ、ということに気づいていたいのです。
イエスさまに触れ、イエスさまよっていやされる、解放される、そういう集まりと、すでにされている。
あの12使徒の選びのように、わたしたちの目には、りっぱな信仰者の集まりでもなく、なんだか、バラバラで、はらはらするような、集まりのように見えても、
この集まりは、イエスが宿り、イエスに触れるために、神が選ばれた集まりなのだということに、目覚めていたい。
毎週、木曜日の2時から4時まで、教会カフェと銘打って、牧師とお茶をしましょう。おしゃべりしましょう。そんな場をつくったんです。
先週はそこに、3人のご婦人が来てくださったんです。雨が降っていたのに、来てくださったんですね。
先週から、私たちの教会に来てくださっている、Nさん。そして、わたしは初めてそこで、お会いできた、教会員のNさん。そしてMさんも
実は、すこし重い課題も抱えて、悩んでおられることも知っていたから、それぞれに個別に、牧師とお話した方がいいのかなと、と内心思いながら、お互いに、初めましてなんて言いながら、話しをしていたら、初めて会ったはずの、NさんとNさんが、同じような苦しみを経験していることが分かって、ちょっと普通では、ありえないような、出会いの中で、そこで、お互い、初めてあったにも関わらず、ほんの二時間ほどの間ですけれども、本当にお互いに心開いて、心の傷が癒されていくような、そんな体験をしたんですよ。
わたしは、後半は、もう、ただ何も話さないで、二人の話しているのを、聞いているだけ。
でも、ああ、今、イエスさまが触れてくださっているんだなと、つくづく思った。
今日の聖書の出来事の最後は、こう終わります。
「群衆は、なんとかしてイエスに触れようとした。
イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」
今、目に見えるすがたで、主イエスは見えなくても、
十字架についたイエスは、復活し、今、わたしたちの間におられる。
ゆえに、教会は、イエスさまが選び、招き、イエスさまが共におられる、癒しと解放のコミュニティー。
わたしたちは、今日も、わたしたちの間で働き癒される、主イエスに触れたくて、
暑くても寒くても、こうして、主の日に顔をあわせます。
顔をあわせて賛美し、礼拝しなければ、味わうことができない、主イエスとの触れ合いがあるから。
わたしたちにとって、礼拝は、しなければならない義務ではなくて、
そうせずには、いられない。生きられない、命だから。
この不安や怒りをかきたてる言葉が飛び交う社会の中で、現実の中で、
恐れという、汚れた霊に縛られ、自分自信を見失わないために。、
なんとかして、今日も、イエスに触れたいから。
イエスさまから出る「力」を、「愛」を、「いのち」を、
わたしたちは、どうしても必要としているから。
わたしたちは、ここに集う。今日も、教会をかたちつくる。
そこに、主イエスの力は、愛は、いのちは、注がれる。
今まさに、この礼拝のなかで、
イエスから力が出て、私たちは癒される。
今、まさに。
さあ、主イエスに出会った、このいのちの喜びを携えて
新しい歩みへと、遣わされていきましょう。
祈ります。