19日の主日礼拝メッセージ

ルカによる福音書6章12節〜19節
「イエスから力が出て」

 Nさんが、私たちの教会の仲間、神の家族になられました。主が選び、神が出会わせ、神が一つにしてくださる、奇跡を、この朝、礼拝の中で、ともに体験させていただていることを、心から感謝しています。

 Nさんを迎える私たちにしてみれば、ある時やってこられたNさんが、二ヶ月ほどたって、今日、私たちの花小金井教会のメンバーになってくださったという、そういう出来事であるわけですけれども、

 教会に加わろうとする、その人にとっては、きっと、様々な葛藤があり、迷いがあり、本当にこれでいいのだろうかと、揺れる心があり、そのたびに、ただ、ただ「神さま」と祈りつづけてきた日々があり、そうやって、一つの決断へと導かれていくという、プロセスがあったはずなんんです。


 皆さんも、きっとそういう経験があったと思います。何かを選び、決断する。そこに至るまでの祈りの葛藤のような経験を、なさったことがあるのではないですか。今、まさにそうだという人、これからそういう祈りに招かれる人。それぞれでしょう。

さて、今日の御言葉は、冒頭、こう語り始めます。

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って世を明かされた」

エスさまはここで、どうしても、祈らずにはいられない、という時を迎えているのです。

どうしたらいいのか。
この道か、あの道か、この人かあの人か。

どちらを選ぶべきか。

この後、イエスさまは弟子の中から、使徒を選ぶに当たって、どうしても祈らないわけにはいかなかった。ルカの福音書はそう記します。

あの十字架か、それともほかの道か。その最後の最後の分かれ道の前。あのゲッセマネの園でも、イエスさまは夜を徹して祈られました。

できることなら、この苦い杯を、とりのけてください、とさえ願いながら。しかし、私の思いではなく、天の父の御心がなりますようにと、祈られたイエスさま。

そう、イエスさまにとって祈りとは、自分の願いを、天の父に押しつけることではなく、反対に、天の父の御心と自分の心の思いが、一つとなるための、交わりの時。天の父の御心に生きる勇気と力をいただく、大切な時。

わたしたちにとっても、時に、「祈り」とはそういうものではないでしょうか。

わたし自身。今、ここに立って、御言葉を語る牧師へと、4月から歩みだす決断をするのは、容易ではありませんでしたから。

迷い、悩み、様々なことを考え、自分自身の思いと葛藤し、どうしたらいいのかわからず、ただただ、祈るしかないという時が、必要だったことを、思い起こします。

きっと皆さんも、そんな時を経験しておられるでしょう。

さて、今日の御言葉の箇所は、先週の箇所の続きなのです

安息日に、手の萎えた人を癒したことで、イエスさまは、律法学者たちから怒りを買った。

「怒り狂って、イエスをなんとかしようと話し合った」と書いてあります。何とかしようとは、殺そうということです。

ご自分の行動が、ただならぬ殺意を生みだしてしまった。それは、結果としてそうなってしまったというより、当時の社会の中で、安息日に癒しなどをしてしまったら、当然引き起こされるとわかっていた怒りであり、殺意なのです。

エスさまは当然、ご自分の行動によって、律法学者の人々から、ますますの怒りを買い、これからは命の危険を、考えなければならなくなることは、きっと、わかっていたでしょう。

だからこそ、これから歩む、その困難な道を、イエスさまのそばで、共に歩む「仲間」、「使徒」と呼ばれる人々を、いったい誰にしたらいいのかと、イエスさまに従ってきた弟子たちの中から、選ぶに際して、悩み、呻吟しつつ、朝まで祈られたのではないかと、そのように想像するのです。

誰を選んだらいいのですかと、神の御心を求める長い祈りが、結果的に朝までとなったのではないか。

これからの困難な歩みを、ご自分のまじかで、苦楽を共にしていく仲間たちを選ぶまで、

たしかに、これが神の御心だと、確信をえるのに、朝までかかったのではないか。

朝になってやっと、イエスさまの心が定まり、弟子たちを集めて、12人を選びだされたのではないか。

そのように、今回わたしはここを読みました。

そうであるからこそ、それほどまで祈られ、神の御心と確信なさって選ばれた12人の名前であるからこそ、

あらためて、この使徒の一人一人の名簿をみるとき、神さまの御心は、人の思いを遥かに超えていると、驚過ざるを得ないわけです。

「ペトロと呼ばれたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブヨハネ、フィリポ」
そのように使徒の名前が続きます。

彼らはみな、漁師出身です。12人のうち約半分の5人が元漁師なのです。

12人のなかには、誰一人として、当時の神学教育を受けた、いわゆる宗教の専門家は1人もいません。

さらに、驚くべきことに、大国ローマの手先として、裏切り者とよばれていた、徴税人出身のマタイがいます。

さらに、その正反対で、支配者ローマを倒せと、過激な独立運動を企てていた、熱心党出身のシモンがいる。

なぜ、政治的には、水を油のような、この二人が、ここに選ばれ、仲間となっているのか、不思議でなりません。

そして極めつけは、やがてご自分を裏切っていく、イスカリオテのユダがいる。

彼を、大切な「使徒」へと選んだのは、ほかでもない、徹夜の祈りの末に、神の御心を確信した、イエスさまなのです。

なんと神の御心は、人には量りがたいことでしょうか。

エスさまが、人の思いから離れ、祈るために山に登られ、徹夜の祈りの末に決断なさった、大切な、大切な、神の国の働きの、「最重要人事」が、これなのです。

なぜ、この人たちなのか? ほかにいなかったのか。

もう少し、宗教的な知識とか、資質、社会的影響力がある人を、入れてもよかったんじゃないか。

それでなくても、少数精鋭なのだから、もっとほかに、いい人はいなかったのか。

これからますます律法学者たちの、殺意の中、働きを進めていかなければならないというのに、もう少したよりになる仲間を、選ぶことはできなかったのだろうか。

こんなに、政治的にも、思想的にも、バラバラの人たちで、一緒にやっていけるんですか。大丈夫なんですか。

目の前のことしか見えない、限界ある人間は、そう思う。

しかし、人の目にどのように映ろうと、どういう評価をしようと、これが徹夜の祈りの末に、イエスさまが確信し、神の御心と信じて、選ばれた使徒。これこそが、神のなさり方なのです。

わたしたちは、ただただこの神の選びの厳粛さを前にして、謙遜にさせられるしかありません。

そして今も、教会において、イエスさまが1人1人を選び、招き、この時代に、イエスさまと一緒に福音を分かち合う仲間としてくださっている。

ですから、教会の中には、保守的なマタイもいれば、革新的なシモンもいていい。ともにイエスさまに選ばれ、招かれ、仲間となることこそ、本当の平和だから。

主イエスに招かれなければ、決して起こり得なかった、出会いと、交わりを通し、

今も生きて、良いことをしておられる、主イエスの働きを、証していく私たちは、仲間だから。

今日、Nさんの証を、一緒に聞くことで、ああ、主イエスは今も働いておられる、ということを、ともに味わったように、

わたしたちは、イエスさまに選ばれ、招かれて、

「確かに主イエスは、わたしたちと一緒におられます」「わたしたちの間に、おられます」

「今日も、人を癒し、救い、よい働きをしておられます」と、

あの人に、この人に、伝えていく仲間。それが教会。

そして、実際に、主イエスが共にいて、今、まさによい働きをしておられる。人を癒しておられる、そういう教会のイメージを、わたしは、「温泉」とたとえているんです。

聖書には「温泉」という言葉は出てきませんけれども、メタファーですね。隠喩。たとえとして、温泉は、分かりやすい。


今日の、御言葉の後半は、山から下りたイエスさまと弟子たちのところに、あちらこちらから、イエスさまの教えを聞くため、また病気を癒していただくためにきた、と書いてあります。

汚れた霊から、解放されることを願ってやってきた人もいます。人はなにか、自由を奪うものに、縛られてしまうものだから。


そんな人々は、なんとかイエスに触れようとした、と書いてあるのです。

彼らは、触れようとしたのです。触れたなら癒されると思っていたから、信じていたから。

だから、遠くからでも、沢山の人々がやってきた。

この出来事を読むたびに、わたしはどうしても、「温泉」をイメージしてしまうのです。

秋田の玉川温泉をご存知ですか。

秋田の山奥にある温泉。そのお湯につかれば、あのお湯にふれさえすれば、癒されるのではないかと、一縷の望みをかけて、全国から、遠くから、人が集まってくる。

重病の病の体を押して、なお、そこに行きたい。触れたいと願う、その人々の心は、決して、決して他人ごとではないはずです。

わたしたちは、決して今日という日を、当然のごとく生きているわけではないのですから。

自分で自分を存在させたのではないのですから。わたしたちを存在させ、いのちを与えたお方に、触れていなければ、触れ続けていなければ、枯れてしまう。病んでしまう存在なのですから。

「わたしにつながっていなさい」といわれた、イエスさまに、

「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられ、枯れる」と言われたイエスさまに、

それはもう、体が癒されるとか癒されないとか、肉体の癒しを超えて、

たとえ肉体は病んだままであろうと、やがて死を迎える時がこようと、

いのちの源に触れたい。イエスに触れたい。その切実なる思いに、目覚めることこそ、救いなのだから。

そういう思いで、イエスさまに触れようとユダヤ全土から集まってきた人々も、

いま、目には見えない主イエスの、その体である「教会」。主イエスが宿り、イエスさまと出会い、イエスさまに触れる、この教会という集まりにおいても、

遠くから近くから、あの場所へ行きたい。あの人々のなかにおられる、お方に触れたいと、

そんな切実な思いをもって、人々がやってくる、そんな教会でありたい。

今日の午後、これからのわたしたちの教会を考えるとき、そんな、まず、イエスに触れる交わり、礼拝という、教会の本質的な部分を、

これを見失ったら、つまり、イエスのいない集まりには、もはやわたしたちは、なれないのだ、ということを、

わたしたちは主イエスに選ばれ、招かれ、イエスを宿す仲間になっているのだ、ということに気づいていたいのです。

エスさまに触れ、イエスさまよっていやされる、解放される、そういう集まりと、すでにされている。

あの12使徒の選びのように、わたしたちの目には、りっぱな信仰者の集まりでもなく、なんだか、バラバラで、はらはらするような、集まりのように見えても、

この集まりは、イエスが宿り、イエスに触れるために、神が選ばれた集まりなのだということに、目覚めていたい。

毎週、木曜日の2時から4時まで、教会カフェと銘打って、牧師とお茶をしましょう。おしゃべりしましょう。そんな場をつくったんです。

先週はそこに、3人のご婦人が来てくださったんです。雨が降っていたのに、来てくださったんですね。

先週から、私たちの教会に来てくださっている、Nさん。そして、わたしは初めてそこで、お会いできた、教会員のNさん。そしてMさんも

 実は、すこし重い課題も抱えて、悩んでおられることも知っていたから、それぞれに個別に、牧師とお話した方がいいのかなと、と内心思いながら、お互いに、初めましてなんて言いながら、話しをしていたら、初めて会ったはずの、NさんとNさんが、同じような苦しみを経験していることが分かって、ちょっと普通では、ありえないような、出会いの中で、そこで、お互い、初めてあったにも関わらず、ほんの二時間ほどの間ですけれども、本当にお互いに心開いて、心の傷が癒されていくような、そんな体験をしたんですよ。

わたしは、後半は、もう、ただ何も話さないで、二人の話しているのを、聞いているだけ。
でも、ああ、今、イエスさまが触れてくださっているんだなと、つくづく思った。


今日の聖書の出来事の最後は、こう終わります。

「群衆は、なんとかしてイエスに触れようとした。
エスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」

今、目に見えるすがたで、主イエスは見えなくても、
十字架についたイエスは、復活し、今、わたしたちの間におられる。

ゆえに、教会は、イエスさまが選び、招き、イエスさまが共におられる、癒しと解放のコミュニティー

わたしたちは、今日も、わたしたちの間で働き癒される、主イエスに触れたくて、

暑くても寒くても、こうして、主の日に顔をあわせます。

顔をあわせて賛美し、礼拝しなければ、味わうことができない、主イエスとの触れ合いがあるから。

わたしたちにとって、礼拝は、しなければならない義務ではなくて、

そうせずには、いられない。生きられない、命だから。

この不安や怒りをかきたてる言葉が飛び交う社会の中で、現実の中で、

恐れという、汚れた霊に縛られ、自分自信を見失わないために。、

なんとかして、今日も、イエスに触れたいから。

エスさまから出る「力」を、「愛」を、「いのち」を、
わたしたちは、どうしても必要としているから。
わたしたちは、ここに集う。今日も、教会をかたちつくる。

そこに、主イエスの力は、愛は、いのちは、注がれる。

今まさに、この礼拝のなかで、

エスから力が出て、私たちは癒される。
今、まさに。

さあ、主イエスに出会った、このいのちの喜びを携えて

新しい歩みへと、遣わされていきましょう。

祈ります。