時は過ぎ去らない

 仏教は「無常」。すべては過ぎ去りゆくという。

昔の写真を見るとき、不思議な感覚にとらわれることがある。まだちいさな子どもたちが、よちよち歩きをしていた頃。結婚したばかりの若々しい二人の姿。

そんな日々が、昔、確かにあった。今は写真の中にしかない日々が

そして、そんなことを言っている、今も、やがて思いでのひとこまとなり、記憶からも消えうせ、後になにも残らない。

そんな「無常」に見えるこの世に生きるとき、だれしもむなしい思いにとらわれるもの。

しかし、本当に時は過ぎ去っていくものなのだろうか。

今日は二度と帰ることなく、消え去っていくだけのものなのだろうか。

それは、ただ、目に見えていることだけが「在る」と思いこまされている人間の錯覚かもしれない。

「時間は過ぎ去りゆくもの」という夢を見ているんじゃないか。

いつか天で目覚めたとき、すべての日々は、時間は、神の手の中で永遠に「在る」ことに気付くのかもしれない。


「無常」ならば、

この世に生きることは、やがて全てを喪失していくためのプロセス。

大切な人を失い、二度と取り戻せない悲しみ、傷、絶望を体験するためにある人生。


だが、もし、それらは「二度と取り戻せない」のではないと信じたら。

いや、実は「失ってなどない」し、日々も時間も、「過ぎ去ってなどない」のだと信じたら。

人が、自分がどう感じていようと、無駄な時など、1秒も存在しえないのだと信じたら。

今という一瞬も、あの日々も、あの時も、共に「在りつづける永遠」なのだと信じたら。

「やがて」、ではなく、「今すでに」永遠を生きているのだ。



「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
わたしは命のパンである。」
キリスト