与えられるために

 今日の礼拝はわたしと妻と、勇希の三人。後の二人のこどもたちは東京のジジ、ババのところにいっています。そのほかの皆さんは、今日はお休み。


 礼拝のメッセージは、一言でいえば、「与えましょう」というメッセージ


 与える人は、与えられるとイエスさまは約束してくださっているからですね。


 そもそも、神さまは与えるのがお好きなお方のようです。わたしたちのために、御子イエスキリストをさえ、おあたえになった、と聖書にありますし、また、求めなさい、そうすれば与えられるであろう、とも言われています。神さまは、けちけちしたお方ではなくて、与えることを喜びとしておられる。


 そんな神さまによって造られたわたしたちも、受けるよりも、与えるときに喜びを感じるように造られているようです。イエスさまは、「受けるよりも、与えるほうが幸いだ」と言われましたし。


 ですから与えることは、損をすることではなくて、与えられることであり、自分自身が豊かになること。


 聖書には、自分の宝の香油をイエスさまに捧げた女性や、全財産を献金したやもめの女性の話が出てきます。


 そしてイエスさまが、彼女たちの与える姿を知っていてくださったことが、聖書に記されています。そのおかげで、今に至るまで、彼女たちのことは、語り継がれることになったわけです。


 与えることは、与えられること。


 結局、人生の最後の最後に残るものは、わたしたちが得たものではなくて、与えたものなのでしょう。



ルカによる福音書6:38

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」