ピース・オブ・マインド

shuichifujii2008-05-27

 今日はユキティさんが午前中、教会にこられました。迎えにこられたお母さんからイチゴをいただいて、夕食のデザートに。


 Mさんをお訪ねして、31日の集会にお誘い。ゴルフの予定をキャンセルして、来てくださるということで、恐縮です。


 さて、中川健一さんの本の中に、こんなくだりがありました。


「十年以上前の話ですが、出張先のホテルで、夜の報道番組をテレビで見ていました。女性キャスターが、歌手のマドンナに直接インタビューした映像を後ほど紹介すると言ったので、楽しみに待ちました。しばらくしてその映像が流れました。その女性キャスターは、流暢な英語でいくつかの質問をした後、こう尋ねたのです。


『これが最後の質問です。あなたは大成功を収めています。富も、美貌も、名声も、成功も、すべて手に入れています。これ以上、何か欲しいものがありますか』


 この質問を聞いたとき、私は思わず身を乗り出し、マドンナがどう答えるか興味津々に待ちました。
 さすがにこの質問は予想外だったようで、マドンナは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、しばらくの間考えています。そしてこういいました。


『ピース・オブ・マインド(魂の安らぎ)!』
 私は、マドンナの率直な態度に感銘を受けました。そして、これほど成功していても、「魂の安らぎ」が得がたいのであろう彼女の状況に同情を禁じえませんでした。」(「聖書流 生き方指南」P.108)


 

 アナウンサーの川田亜子さんの自死のニュースを前に、あらためて、「魂の平安」ということを深く思わされています。


 この「魂の平安」さえあったなら、状況はどうであれ、人というものは、生きていけるのかもしれないと思ったからです。


 しかし、現実には、状況によって私たちの「心の状態」は大きく揺れ動くものです。不安と平安を行ったり来たりするのが私たちです。果たして、状況を越えた「魂の平安」など、存在するのでしょうか?


 ナチスによって4つの強制収容所に収容され、生き残ったフランクルは、こんな証言をしています。


「人間は極限状態の中に置かれれば、みな同じように獣のような行動をすると心理学者はいうかもしれない。しかし、私が収容所でみた現実は、まさにその逆であった。飢えや恐怖が限界に達すれば達するほど、みな同じになるどころか、一人一人の違いが際立ってきた。ある人はたしかにますます獣のようになっていったが、しかし、あるものはますます聖なるものを際立たせていったのである。条件が悪ければ悪いほど、そのうちなるものの違いが表に表れてきた


 つまり、極限状態の中においてさえ、「魂の平安」をもつ人々がいたと、フランクルは証言するのです。


 この変わらない「平安」こそ、生きぬく力。まことの幸い。


 わたしたちは今、この「平安」を知っているでしょうか? 
 どうすれば、この「平安」を知ることができるのでしょうか?



聖書

「わたし(キリスト)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネによる福音書14章27節 口語訳)


「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節 口語訳)


「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」(ローマの信徒への手紙15章13節 口語訳)


「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピの信徒への手紙4章6節〜7節 口語訳)