「足を洗ってくださる主」

 今日はいつもの皆さんはご用事のため、家族で礼拝でした。
この時期はイエス様の十字架のご受難を覚える受難節。
聖書は、イエス様が捕らえられて十字架につけられる前の晩、弟子たちの足を洗われたという出来事。ヨハネ福音書13章1節以下から。




1節には「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」と書かれています。


 イエス様は、この後権力者たちに御自分が捕らえられて、十字架につけられるときがきたことを悟られています。


 しかし、いっしょにいた、イエス様の弟子たちは、まさかそんなことは思っていない。自分たちは、何処までもイエス様についていくし、ついていけると、このときは、まだ思っていたわけです。


しかし、この後、兵隊たちが捕らえにくると、弟子たちはみんな、イエス様をすてて逃げ去ってしまいました。ある意味、弟子たちは全員イエス様を裏切るのです。



 弟子たちも、一皮むけば、結局、自分が一番大事。自分を守るだけのエゴイストであった、ということが、この後明らかになっていきます。



 友人だと信頼していた人が、あるとき突然態度を変える。変わらない愛だと思っていたのに、状況が変わると、態度も変わる。ある賛美歌には「世の友われらを捨て去るときも」という歌詞がありますが、些細なことから、大きな裏切りまで、こういうことは、私たちの人間関係においても、良くあることではないでしょうか。



 弟子たちは、ここまでイエス様に従ってきたのに、いざとなったら、その大切なイエス様を捨てて、逃げてしまうのです。弟子たちのエゴイズム、罪が、あらわになっていきます。


 しかしその前に、イエス様は、大切なことを弟子たちに伝えようと、ここで、弟子たちの足を洗うということをなさいました。


13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。


 当時は土の道のうえを、裸足やぞうりのようなもので歩いていたようですから、足は大変汚れるわけです。


 ですから、食事に客を招くときには、汚れた足を洗う人がいたそうです。そして、それは、普通、奴隷、僕の仕事でした。


 足は一番汚れるところ。この、一番汚く汚れている足を洗う人間は、身分の低い奴隷であったわけです。


 考えてもみてください。いままで先生と慕い、尊敬していた方が、突然、奴隷の仕事をなさる。自分の足を洗ってくださるという。


弟子たちは驚いたばかりではなく、困惑したのではないかと思います。


 上に立つイエス様が、奴隷のようなことをなさる。これはいったいなんだと、混乱したのではないか。


 この世界の価値観は、強いものが支配し、弱いものは支配されるということです。それがこの世界の常識です。


 イエス様についてきた弟子たちも、そう思っていたでしょう。イエス様についてきたのは、イエス様が癒しをなさったり、奇跡をなさったり、教えもすばらしく、沢山の人々を集めて、きっと支配者であるローマ帝国を倒してくれる。そういう救い主だと信じたから、彼らは、イエス様についていったのです。弟子たちはいつも、「誰が弟子の中で一番えらいか」と競い合っていました。みんな、上に上がりたかった。力を手に入れたかった。きっと、このイエス様についていけば、やがて自分たちも、力を手に入れることができると、そういう思いは当然あったわけです。


 ですから、このあと、イエス様が弱弱しく、兵隊たちに捕らえられてしまうと、弟子たちは、一斉に逃げてしまうのです。弱いイエス様についていって、一緒に捕らえられるような弟子は、一人もいませんでした。


 強いものが支配し、弱いものは支配される。それがこの世界の常識。ゆえに強くなりたい。


 しかし、イエス様は、そういう考え方や価値観を、ひっくり返されます。上の立場であったイエス様が、弟子たちよりも、低い立場になって、奴隷のように、弟子の足を洗い始めた。上のものが、下のものに、仕えるという、この世界の価値観とはまったく反対のことをなさった。


7節でイエス様は、「わたしのしていることは、今あなたにはわかるまいが、後で、分かるようになる」と言われましたが、本当に、このときの弟子たちには、わけが分からなかったでしょう。


 弟子のペテロなどは、8節で「わたしの足など、決して洗わないでください」といっています。イエス様に足を洗っていただくなんて恐れ多い、と思ったでしょう。そしてきっと、そんな奴隷のような、みっともなく、惨めなイエス様の姿なんて見たくない、という気持ちもあったと思います。


 そして、まさに、イエスキリストの十字架の死ということは、この世界の価値観から見れば、みっともなくて、弱弱しくて、惨めな、敗北の出来事に見えるわけです。


 ある人は、なんでクリスチャンは、十字架の上で惨めに死んでいったイエスという男を信じるのか。なんで、そんな弱弱しいものをありがたく拝むのかわからないと、いわれる。


 しかし、実は、イエス様が、そのみっともなくて、弱弱しい姿で十字架につくということは、つまり、イエス様が、まさに奴隷のように一番低くくだり、わたしたちの汚れた足を洗ってくださる、ということなのであります。


 つまり、私たちの罪を洗い清めるために、キリストは上から降りて、下へ下へとくだり、ついに、十字架にまでついたのです。


 一箇所聖書を開きましょう。

ピリピ2章6節〜11節
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


 キリストはご自分から進んで、神の身分をすてて、僕のようになって、十字架についた。上から下に下ってこられたのです。


 私たちは反対に、上に上がりたいわけです。その証拠に、だれでも、人から命令されたりしたら、カチンとくる。特に、目下の人間にいわれたら、腹が立つでしょう。しかし反対に、人に命令することほど、気持ちがいいものはない。夫婦の間でも、親子の間でも、そうではないでしょうか。


 つまり、どんな人も、従うことより、命令するほうがいい。下にさがったり、ましてや、人の足を洗うようなことはしたくないのです。だれもが、上に上がりたい。人から認められたい、評価されたいと頑張る。でも、そうなれないので、ある人は、自分はだめだと責めたりする。それもまた、上に上がりたいからこそです。


 しかし、イエス様は、反対なのです。上に上がるのではなく、下にさがった。神の身分を捨てて、人となり、もっとも下の立場である奴隷のようになって、人々の汚れた足を洗う。それが、まさに、罪を背負って、十字架についたということ。ここに神の愛があるのです。


 神様の愛は、下にさがってくる愛です。人間の愛は上に上がろうという愛。奪う愛、エゴイズムの愛です。しかし、神の愛は、下にさがってさがって、罪に悩む、私たちよりももっと下にまでさがって、私たちを引き上げてくださる愛。奪う愛ではなく、与える愛なのです。


 有名な、シュバイツアー博士は、音楽家神学者としての成功を捨てて、医者になり、アフリカの奥地に下っていきました。人々から崇められ、名を残す上に上がる道ではなく、アフリカの奥地で苦しむ人々に仕える、下にさがる道を選び取りました。それがキリストに従う彼の生き方でした。



 「だれが弟子の中で一番偉いか」と言い争う弟子たちにイエス様は「上に立ちたいと思うものは、すべてのものの僕となりなさい」と、教えられたことがあります。本当の意味で、上に立つということは、下に下ることであります。上に立つということは、仕えるということです。


 英国では、総理大臣のことを、プライムミニスターといいます。プライムとは第一の、ミニスターとは仕える者ということです。イギリスにおいて、総理大臣という言葉は、一番仕える者という意味なのです。これはもちろん、聖書から来ている考えかたでしょう。


 上に立つ人が、一番下に下って、一番仕える人になる。国の政治家や役人が、国民を上から支配するのではなく、下にくだり仕えるとき、幸いな国となる。家庭のお父さんやお母さんが、脅すことで支配するのをやめて、下にくだり、自分を捧げて仕える家族は幸いです。そこには本当の愛があります。


 愛するということは、下に下って、仕えるということだからです。


 まさにイエス様は、神の立場にありながら、下にくだりにくだって、弟子たちの汚い足を洗い、エゴイズムに汚れた罪を洗ってくださるために、十字架にまでついてくださったのです。


しかし8節にはこうあります。


13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 弟子のペテロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」といいました。

 イエス様にそんなことをしていただくのは、申し訳ないということかもしれません。自分の足は自分で洗います。そんな迷惑はかけません、ということかもしれません。ある意味、とても優等生な答えです。


 「そんな滅相もない」。「申し訳ない」。「自分でできます。大丈夫です。」。


しかし、そんなペトロにイエスさまは
「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)
といわれるのです。


 自分の汚れなど自分で洗えます。自分の罪など自分で何とかします。自分のエゴイズムを、自分で頑張って何とかします、というならば、私たちは、キリストとなんの関わりもありません。


 自分に信頼し、自分の力や自分の愛を信じて、自分の頑張りで、生きていくという生き方には、キリストは必要ないのです。


 しかし、そんなペテロや弟子たちは、このあとみんなイエス様を見捨てて、逃げ去ってしまいます。自分の心の汚れ、エゴイズム、その罪は、自分の力ではどうにもならないことが、はっきりするのです。自分自身に信頼し、自分の力や愛を信じていても、いつかは自分の罪が思い知らされ、失望することになることを、彼らはいやというほど、思い知るのです。


 どうしても、イエス様に、この自分の足を洗っていただかなければならない。罪を清めていただかなければならない。それが人間なのです。罪をキリストに洗っていただかなければ、私たちに、本当の希望はないのです。


 弟子のなかにユダという人がいて、彼は、すでにイエスさまを裏切る考えを持っていたと2節に書いてあります。

13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

 しかし、イエスさまは、この弟子のユダの足も、洗われたでしょう。このユダの足は洗わなかったとは、聖書には書いていないからです。イエス様は、たとえ裏切ると分かっていても、彼の足を洗われた。いや、裏切るとわかっていたからこそ、その彼の足を、主は洗わなければならなかったのではないでしょうか。


 神の許しの愛は、私たちには深く大きく、計り知れないのであります。


 わたしたちが、どんなに、神様を悲しませるような、罪深いものであろうとも、なんども、なんども、主を、裏切ってしまうようなものであったとしても、あまりに情けなくて、自分で自分のことが許せないことがあったとしても、主は、私たちを赦すことができる。愛することができる。この汚れた足を、洗ってくださることができる。それが十字架です。神の愛です。


この神の愛に身をゆだねて、任せてしまう。それが信仰です。


 自分を責めるのでも、自分はだめだと嘆くのでもなく、この汚れた足を洗ってくださる、キリストの愛、十字架の愛に、委ねて、まかせるとき、喜びが湧いてきます。十字架について、復活したイエス様が、私たちの心に喜びと愛を注いでくださいます。信仰という管を通して、神の愛が、私たちの心に注がれていきます。


 こんな自分をも、神は赦し、愛していてくださる。ここにこそ本当の喜びと平安があるのです。



 さらに、自分の本当の姿、自分の罪に気が付いたならば、もうだれも、人のことを悪く言う必要はなくなります。自分の罪に気がついたのですから、もう、人の罪を、とやかく言わなくてもいい。そして、自分のことも、悪くいわなくていい。裁かなくていい、だめだとおもわなくてもいい。なぜなら、イエス様がその汚れた罪のために、すでに十字架につき、足を洗っていてくださるからです。


ですから、イエス様は14節15節で、こういわれます。


「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」


互いに、足を洗い合う。これは愛し合うと言ってもいいと思います。


 世の中は、たとえ家族でさえも、いや家族だからこそ、愛し合えず、傷つけあうこともあります。人は、他の人を、本当にすべて受け入れ、許し、愛することは、できません。人には罪があるからです。


 しかし、なお、教会は、互いに愛し合う人々の集まりであると聖書は、告げるのです。

 
 なぜなら、教会とは、イエスさまに、その汚い足を洗って頂いた人々の集まりであるからなのです。


 みんな同じく、罪を赦され、清められ、足を洗っていただいた。だから、だれも人のことを悪く言うこともないし、自分のことも悪く言わなくていい。そして、互いに、足を洗いえばいい。それが教会。


 最後に、34節からのイエス様の言葉を、読みたいと思います。


「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


 教会は、イエスさまに、その汚い足を洗って頂いた人々の集まり。十字架の愛を信じる集まりです。

 この世界の中で、もっともすばらしい集まり。主に、足を洗っていただいた人々の集まり。それが教会です。

 そのことを、思いつつ、今日から始まる新しい週、互いに足を洗いあう、歩みでありたいと祈り願うのです。